■月に狂え いとしの君〜後

  *炎の蜃気楼・直江生誕祭プチオンリーにて発行した一冊です。
  *当日本がなくなってしまったこともあり、サイトにてお話を公開させて下さい。
  
  後半は赤鯨衆に入った頃の二人を書きました。




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「身体が熱くて眠れない」
 背後から届いたのは、高耶の声だった。
「……それは、随分と涼しくなって来たというのに。まさか風邪でもひいたんじゃありませんね?」
「はぐらかすな。分かってるんだろう、俺が言いたいことくらい」
 既に時は午前零時をすぎ、風になびく草の音の他には、ただただ静寂が辺りを包んでいる。
 それゆえ殊に、凜とした高耶の声は冷えた空気へと響き、心地良く直江の耳に残った。
「言いたいこと、といいますと」
「お前は……いらない時には押しつけて、必要とした時には拒むんだな」
 深い闇を、煌々と照らす月明かり。
 空を見上げれば、今宵はまことに立派な満月だ。

 月光を頼りに、宿泊所である施設の裏口にある階段に腰を下ろす直江は、日本酒の一升瓶と盃を手に月見と洒落こんでいた。もう一時間ほども前から開かれた、ひとりきりの宴である。
「そもそもお前。こんなところで優雅に酒なんか飲める身分じゃないだろう」
「隊員たちの宴会は私には騒がしいばかりなんですよ。今夜は久しぶりに酒も解禁だ。私も飲む権利があるはずでしょう」
 視線を後ろへと向けたなら愛しい姿がそこにあることは承知だ。しかし、直江は主君の気配だけを感じ取るに留めると、振り向くこともなく普段より幾分冷たい口調で突き放すように告げた。
 やってきた高耶に対し、一度も顔を合わすことなく酒を飲み続けている自分の態度が横柄であることは間違いない。けれど今は、こちらを見つめているだろう高耶の視線を正面から受け止める覚悟ができていなかった。
「今夜の月の光をもうどれだけここで浴びているんだ」
「あいにくここには時計がありませんからね、正確な時間は分かりませんが」
「そろそろお前の中のケダモノの部分が騒いでる頃だろう」
「なんの話です」
「お前が昔言っていた。満月の光は、人を狂わせるって」
「そんなことを言いましたか」
「そうやってごまかすのもいい加減にしろ」
 停滞した空気を裂くように、語気の強い声は真っ直ぐに直江の身体を射る。
 何者をも惹きつけ、そして屈服させてしまう力。それは彼が持つ生来の気高さからくる美点であり、しかしまた、後ろ暗い胸中を抱える者にとっては何より恐ろしいものでもある。

 朱色の盃を満たす酒に映るのは、かくも美しい月の円。
 直江は何かを振り切るように、喉奥へとそれを流し込む。
 妙に冷静なままの心は、何かの前触れか。いくら飲んでも酔えない自分に、直江は一人嘲笑を零した。
「少々、感傷に浸っていたんですよ」
「……お前らしくも、ない」
「今夜の月は美しい。こんな夜には考えずにはいられないんです。どれだけの長い時間を生きてきても、思い通りになることなど少しもないのだと」
 あたかも鏡花水月の如く。
 飲み干した酒と共に消えてしまった水月は、確かにこの手の中に在ったというのに。
 空の盃に映るものは、幻のように今はない。
 手に入れたと思えば、次の瞬間には自分の腕からすり抜けていく愛しい人の存在を、想えば想うほどに気が狂いそうになる。
 高耶は一体、どこへ行こうというのだろう。
 ここまで来て手放すつもりなど毛頭ないけれど、それでも不安は尽きることがない。
 水月を追う愚か者に成り下がったとしても、直江は彼をどこまでも追いかけていくだろう。
――けれど果たしてどこまで?
 どこまで彼を自分の元へと、この世界へと留めておけるのだろうか。

「うぬぼれるなよ、直江」
 すっと後ろから伸びてきた高耶の腕が、勢い直江の手にしていた空の盃を取り上げる。同時に強い力で肩を掴まれた直江の身体はぐっと後ろへ引かれ、一瞬のうちに腰をひねるような体勢で高耶の方へと向き合わされていた。
 毒を含んだ高耶の視線が、間近に注がれる。
 おそらく気を緩めたらこの身体が震え出してしまうほど、その瞳から逃げ出したい気持ちならばこんなにも直江のうちに渦巻いていた。けれど捕えられてしまったからにはもう、そのまなざしから目を離すつもりはない。逸らすことが赦されようはずもなかった。
「ままならない世界で生きていくんだ。誰もが皆。俺はそれを放棄したりはしない」
 迷いのない、強い言葉。
 彼はどうして、常人ならばまともに立ってはいられない程のとてつもない恐怖を、その身体に受け止めてしまえるのだろう。もし、触れた場所から他人の感情が流れ込んでくるようなことがあるとするならば、きっと自分はこうして高耶に捕らわれた時点で気が狂って我を無くしてしまうだろう。
 それでも彼と溶け合えるなら。
 恐ろしさから強ばる身体を奮い立たせ、直江は向き合った高耶の身体をぐっと抱き寄せる。その勢いに、高耶の手のうちから離れた盃がコンクリートの床へとぶつかり、硬質な音を響かせた。
 酔えない酒は、もう必要ないだろう。
「月に見られてる」
 重なり合う二人の姿を、月明かりが照らし出す。
 直江を酔わせるものは酒なんかではなかった。潤んだ瞳でこちらを見つめ、濡れた吐息を吐き出す高耶の存在こそが、直江を熱くし狂わせていく。
「熱いんだ、直江――」
 ひとときの快楽に身を委ねてしまえば、わずかばかりの安寧を感じることができるだろうか。
 ねっとりとした高耶の視線に絡めとられてしまうその刹那、言葉を発することを忘れてしまった直江の口唇は、高耶によって熱い口づけで塞がれていた。
 不安ならばきっと、同じように高耶の胸中にも根を張っているのだ。口唇を重ねたまま、直江はなおもきつく高耶の身体を抱きしめる。彼もそれに応えて直江の背中に手を回すと、それが合図になったかのように口づけは深いものへと変化していった。
 舌を絡め、噛みつくように口内を貪り合えば、いつしか静かな夜はみだりがわしい水音に支配されていく。
 火がついた身体はまるで獣のように、情欲をとめる術を持たない。衣服を引き裂き、滑らかな肌に爪を立て、甘く芳香を漂わせる身体に口づけを捧げる。
 煌々と輝く満月の光を浴び、その下で素肌をさらけ出す今夜の行為は、どこか儀式めいているように直江には感じられた。
 触れれば触れるほど、彼を想う気持ちはどこまでいっても尽きることはないのだろう。
 
 満月の夜は、人間をも狂わせてしまうという。
 降り注ぐ月の光をいい訳にして、今にも不安でばらばらになってしまいそうな互いの身体を繋ぎとめることができるならばどれほどよいことか。

 高耶の身体をきつく抱きながら、この手に触れている限り、何があっても彼の腕を放さないと直江は心に誓う。
 たとえここではないどこかへ行ってしまうことがあるのだとしても、自分たちを照らすこの光だけはけしてなくなることはないだろう。
 ならば自分はこの月明かりのように。
 どれだけ穢しても気高さを失わない彼を手に入れることがどれだけ困難なことだとしても、傍にあり続けること、いまだ二人を照らし続ける光のようにありたいと直江は願う。
「――愛しています、貴方を。こんなにも深く」
 自分たちは、言葉がいかに無力かを知っている。
 それでも、果てる刹那、直江が告げた言葉にかすかに微笑む高耶の姿を見つけた気がした。それが儚く映ったのは、にじむ視界のせいだったろうか。

 まだ夜は明けない。
 これは朝が訪れてしまえば終わってしまうひとときの休息に過ぎない。
 それでも、今はまだ。こうして高耶の身体をこの腕の中に留めておきたい。


 見上げればそこに、二人を見下ろす月は輝く。





  ***

  初のミラージュ話。
  苦戦しつつも、とても楽しくお話を書けました!
  2013.05.03