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■月に狂え いとしの君〜前
*炎の蜃気楼・直江生誕祭プチオンリーにて発行した一冊です。
*当日本がなくなってしまったこともあり、サイトにてお話を公開させて下さい。
前半はまだいたいけだった頃の高耶さんと、
まだ若干紳士だった頃の直江さんですwww

「俺を逃げ場所にするの、そろそろやめてくんねえ?」
幾分西へと傾いた午後の日差しが差しこむ窓際の席。
見せつけるように長い脚を組んで慣れた様子でコーヒーカップを手にする千秋が発したその一言に、高耶は返す言葉もなくぐっと拳を握りしめた。
尊大な態度でこちらを見つめる千秋の目の前の席に座る高耶は、居心地の悪さに背中をまるめてテーブルの上のアイスコーヒーが入った透明なグラスを見つめる。注文したまま口もつけていないせいで、解ける氷に随分と珈琲は薄まっているようだ。もはや飲めたものではないだろう。
もっとも、珈琲が飲みたくてこんな場所までやってきたのではないのだけれど。
カフェタイムを迎えた喫茶店は休日らしく様々な客で賑わい、あちこちから楽しそうに談笑する人々の声が届く。その中にあって、こんなにどんよりとした空気を纏っているのは自分たちだけに違いない。
高耶がここへやってきた時、千秋は二人用のテーブル席に腰をかけて一人きりの時間を堪能しているようだった。
何を知っているというのか。高耶の顔が見えた瞬間に顔を歪めた彼は、高耶がここへやって来たことを随分と迷惑がっているように見える。それはただ単純に、彼のティータイムを邪魔したからというだけではないようだ。
「飲みもしねえコーヒー見つめてる時間があるなら、もっと他にやることがあんじゃねえのか」
「何だよ、それ」
「慰めてほしいなら俺以外をあたってくれよ。毎度毎度、お前たちの痴話喧嘩に付き合ってやれるほど、俺も暇じゃないんでな」
「ち……っ、そんなわけないだろう!」
「あーあー、大声出さないでくれる? お前の声は響くんだ」
痴話喧嘩とはどういう意味だ。高耶は千秋の多分に嫌味を含んだ発言にかっとなって声を荒げたものの、隣の席からこちらを振り返った女性の視線に気付いてきゅっと口唇を引き結ぶ。
再び二人の間に無言の時間が訪れても、不機嫌な態度を崩さない千秋に対し、高耶は何ひとつ言い訳をすることができなかった。
どうして彼はこう鋭いのだろう。
高耶の姿を見ただけだというのに、どうやら彼は高耶が今置かれている状況を察してしまったようだ。
たいがい自分も分かりやすい人間なのだということは自覚していたけれど、それを素直に認めるには高耶のプライドが邪魔をする。
「悪いがな、俺に直江のこと訊こうったって無駄だぜ」
「別に、あいつのことなんか」
「あいつのことなんか? ならなんで俺のとこに来たんだ」
「偶然だ。表通りからお前の姿が見えたから、暇だし冷やかしてやろうかと思って」
「は、どっちにしろ迷惑なことに変わりねえな」
呟く言葉の後に、重いため息をひとつ。呆れられていることはひしひしと伝わってきたものの、高耶はどうすることもできずに千秋から視線を外す。なんてことはない世間話や馬鹿話のひとつでもできればよかったのだが、こちらが身構えてしまった以上、この重苦しい空気を払拭する術がない。
どうしたものか。
気まずい雰囲気の中で考えを巡らせてはみるけれど、よい案など浮かぶはずもなかった。
当然そんな高耶の胸中など千秋が気にかけるはずもなく、彼はなおも不愉快そうな表情のままだ。そうしてとうとう無言の時間にも飽きたのか、くっと飲み干したコーヒーカップをテーブルの上に戻す千秋は、代わりに裏を向けて置かれていた伝票を掴んで勢いよく椅子から立ち上がる。
「出るぜ」
そう言葉を向けられたのと同時。高耶の腕は唐突に強い力で千秋に引かれ、強引に椅子から立たされるとそのままレジの方へと引っ張っていかれた。
「おいこら、離せよ!」
「馬鹿力! 暴れんな」
おそらく周囲からは奇異の目で見られているのだろうが、千秋は高耶の腕を離すことなくずんずんと歩みを進めていく。釣りはいいから、と、笑顔でレジにいた女性店員へ紙幣を渡す千秋があまりにも気障で、目の当たりにしてしまった高耶は盛大に眉根を寄せて舌打ちを漏らした。
振り払おうと思えばこんな腕くらい、簡単に振りほどける。
それができないのは、自分の中に彼を無意識に頼ってしまったという後ろめたさがあるからだろうか。
千秋に会ったところで、状況が好転するわけでも心が晴れるわけでもないというのに。
「何なんだよ、いきなり引っ張ってきやがって」
きつく掴まれていた腕を突き放すようにして解かれたのは、店の外に出てからのことだった。
まったく、馬鹿力はどっちだ。高耶は心の内で声には出さない文句を零す。
長袖のシャツの下にある肌は見えないけれど、きっとそこには赤く跡がついていることだろう。強く握られていた場所が、じんと疼いていた。
「まだコーヒーの一口だって飲んでなかったのに」
「よく言うぜ、飲む気なんかはじめっからなかったくせに」
「だけどお前に無理矢理連れ出されなきゃなんねえ理由なんかねえだろ」
「それがあるんだよ、ほら。――お迎えだぜ、大将」
一体何のことだと疑問に思いつつ、高耶は千秋があごをしゃくって指し示してみせた前方へと視線を送る。
人通りも多い繁華街の表通り。送った目線の先には、雑踏に紛れ、通りの向こうからこちらへと歩み寄ってくる一人の男の姿が見えた。
日中は随分暑くなってきたというのに、男は暑さなどまるで感じさせない涼しげな顔をして、黒いスーツをかっちりと着こなしている。休日白昼の街の中では多少の違和感が伴うものの、その姿が悔しいほど様になっていることは認めざるをえない。
無論、よく知った顔だ。
そして、できることなら今はまだ見たくなかった顔でもある。
なぜ、彼がこんなところにいるのだろう。
どうして千秋は彼がここへ来ることを知っていたのだろう。
いよいよ高耶と千秋の元へと近付いてくる男を前にして、状況が掴めない高耶は身体をぐっと強ばらせる。
「悪いけど、打ち合わせは後日回しにしてくれる? こいつ、引き取ってくれ」
「今日を指定してきたのはお前だろう、長秀」
「状況が変わったんだ。文句なら俺じゃなくて景虎に言ってやれ」
彼らが会話をしているうちにさっさと逃げ出してしまおうか。
そう思った高耶の思考を読んだように、いつの間にか目の前までやってきていた男の手が高耶の腕を掴む。
痛い。
よりによって、千秋が掴んでいた場所に触れずともいいだろうに。
「直、江……」
やってきたのは、今のところ一番会いたくなかった男だ。
ここしばらくの間あえて彼を避けていたというのに、こんな所で出くわしてしまうだなんて。
千秋もとことん人が悪い。高耶と直江の関係がこじれていることに気付いていながら、彼はこれから直江と会う予定だったことをおくびにも出さなかった。そうとは知らずのこのこと千秋の元を訪れてしまった自分を呪ったところで時既に遅しである。
もう逃げられそうもない。
いつまでも逃げていられるはずはなかったけれど、直江によってがっしりと腕を捕まえられてしまったからには覚悟を決めるしかないだろうか。できれば心の準備くらいはしておきたかったのに。
高耶はこちらへと向けられた直江の視線から目を逸らして、逃げ出したくなるような状況に重く息を吐き出した。
***
それはもう半月以上も前のことだ。
しばらく続いていた雨が上がり、満月が綺麗な夜だった。
ここ何日か、どんよりとした雲に覆われていた空も、この美しい月を待ち望んでいたようだ。
「知っていますか」
不意に自分に対して投げかけられた問いに、高耶は窓際に立つ直江の方へと視線を移す。
「何を?」
「満月はね、人を狂わせるんです」
高耶はこの日、呼び出しに応じて今後の予定を詰めるために直江の定宿であるホテルの一室を訪れていた。高層階にある部屋の大きくとられた窓からは、澄み渡る夜空がよく見える。照明は落とされていたけれど、空に浮かぶ満月から放たれる煌々とした光が、室内を照らし出していた。
「それって狼男のことだろ? 満月の夜に変身しちまうっていう。怪物じゃねえか」
「いいえ、人間も月の影響を受けることが研究されているそうですよ。統計をとると、満月の夜は犯罪率が上がるそうです」
「……ふーん」
「人の身体はほぼ水分でできているでしょう。海水が月によって満ち干きするように、人間もまた月の満ち欠けの影響を受けるのではないかという説があるらしいのですが、興味深いとは思いませんか」
水分が多かろうが少なかろうが、それがどうして犯罪に繋がるのか。
高耶には皆目見当がつかない。
少しも興味がないことだった。
打ち合わせだというからわざわざこの部屋までやって来たというのに、さっきから関係のない話ばかりを持ち出す直江はまるで本題に入ろうとしない。それどころかつい今しがたルームサービスで持ってこさせたワインボトルを開けると、窓の傍に置かれたソファセットでグラスに注いだ赤ワインを悠々と味わいはじめる始末だ。
「お前だけ優雅なことだな」
高耶は手持無沙汰になって、直江が座るソファを避けるようにベッドの上に腰をかける。
「貴方はだめですよ、未成年なんだから。だからこうして貴方用にも用意したでしょう」
ワインボトルと共にテーブルに置かれているのは、ジュースが入った一回り小さいボトルだ。このホテルでは評判のフレッシュジュースだと言うが、うまそうにワインを開ける直江の隣では、とてもじゃないが甘そうなその液体を飲む気分になれなかった。
「いらねえよ、ガキ扱いしやがって」
高耶には直江の持つこういった頑固さが理解できない。
アルコールがなんだ。そんなもの、高耶にとっては今さら摂取することを規制するようなものでもなかった。なのに直江ときたら未成年の飲酒はいけないと言って聞かない。自分だって学生の頃には飲酒の経験くらいあっただろうに。
だからといって、直江は高耶のことを単純に子ども扱いしているだけではないと知っているから、彼が固執するこの曖昧な基準での線引きが腹立たしいのだ。
「そこからでは月も見えない。意地を張ってないでこちらに来てお飲みになったらどうですか。喉、乾いてるんでしょう」
「月なんてどうでもいい。本題に入らねえなら俺は帰るぜ」
「貴方もせっかちな人だ。この名月を愛でる余裕もないなんて、今夜の月が泣きますよ」
「言ってろ」
あからさまに呆れて見せる直江の態度が気に入らなくて、高耶の返答は至極そっけないものになった。
近頃は殊更そうだ。
素直になれないのは相変わらずだけれど、直江の含みを持たせた物言いがなぜだかひどく気に食わなかった。少し前なら甘えられていたことが、今の高耶にはできない。
差し出されたものを素直に受け取れたなら、与えられるのは甘い心地よさだと知っているのに。
そうはできない高耶を分かっているのか、直江は最近、高耶を試すようなことばかりを言った。試されることでますます高耶は意固地になるのだと気付いているだろうに、これではまるで悪循環だ。
直江は変わってしまった。
ただ優しいだけの保護者ではなくなってしまった。
それが高耶には悲しく、この心を重くしている所以だ。
「ねえ高耶さん。もしかしたら貴方もこの満月の光の影響を受けてるんじゃありませんか」
「どういう意味だ」
「私を、警戒しているんでしょう?」
「誰が!」
試されているというよりは、いっそからかっているのだろうか。
いかにも挑発めいた直江の言葉を受ける高耶は、反射的にそう声を荒げていた。
これでは彼の思うつぼだとは分かっていても、感情はそう易々とセーブできるものではない。それができるほど達観していたならば、毎度こんな風に直江に遊ばれることもないのだろう。
「この満月に、貴方も、そして私も狂わされているのかもしれない」
ワイングラスをテーブルへと下ろす直江が、ソファから立ち上がるとこちらへ向かって歩みを進める。高耶は咄嗟に身構えたけれど、彼と自分の間にはほんの数歩の距離しかなく、戸惑う隙に高耶の身体は直江のテリトリーへと捕らわれてしまった。
ぎしり、二人分の重みを受けるベッドのスプリングが耳障りな音をたてて軋む。
抵抗する間もなく、覆いかぶさるように重なってきた大きな身体に、高耶は動きを封じこめられていた。
「やはり今夜の打ち合わせは中止しましょう」
「ふざけんな、どけよ直江」
「ご自分では分かりませんか? ほら、こんなにも頬が上気してる。身体が熱く疼いているんでしょう」
そんなことがあるかと、かっとなる高耶は直江の身体を押しのけるためにぐっと手に力を込める。
しかし、どうしてか腕を振り上げることができない。
けして直江に両腕を押さえつけられていたわけではなかった。それなのに、思った以上にこの状況に動揺してしまったのか、高耶の身体はまるで言うことを聞かないのだ。
吐く息が感じられるほど間近に直江の得意げな笑みが映るから、高耶の口からは意図せずちっと舌打ちが漏れる。
抵抗できないと知れると直江の行動は素早い。怯んだその一瞬に、高耶の両腕は直江よって頭の高さでシーツの上へと縫いとめられてしまった。
「離せ……っ、熱くなってんのはお前だけだ」
「それはどうでしょうね。こうされればろくに動けもしないくせに、強がるのはおやめなさい」
身体をねじって逃れようとしても、高耶の手首を押さえつける彼の力は強く、あがいたところで直江の下から逃れることはできない。自分はけして非力なわけではなかった。それでもこの男の力には敵わないのだ。
「やめろ!」
月の光に狂わされたなどと、高耶は直江の言う満月の迷信なんて少しも信じてはいなかった。
そう、信じてはいないのに、彼が言うようにいつの間にか自分も直江にあてられて良からぬ欲望を抱いてしまったのだろうか。熱くなっているのは直江だけだと声を荒げてはみたものの、触れる直江の手は自分の肌よりもずっとひんやりとしている。これでは直江に歯向かったところで、偽りであることは明らかではないか。
アルコールを摂取したわけでもない。
ただ高耶の傍にあるのは、ワインの芳香を纏う直江の熱だけだというのに。
自分はそんなものに酔ってしまったというのだろうか。
彼の下でろくな抵抗もできない高耶は、こんな行為を求めていたとでもいうのだろうか。
近づく直江の口唇に、ぎゅっと目をつぶる高耶はせめてもと顔を背けて口づけを拒む。
けれどそんな高耶を弄ぶように、口づけを求めた直江の口唇は、顔を背けたことでむき出しになった不防備な首筋へと下りた。
「……っ」
瞬間、びくりと身体が跳ね上がる。
柔らかな口唇の感触。触れられたその場所から、じわりと官能の波が身体中に広がる。
じゅっと、淫らな音を立てて柔らかい肌を吸われると、腰の辺りに痺れが走ってたまらない気分になった。
「いやだ……あっ」
首筋をなぞる、濡れた舌先。
両の手に絡められる十本の指先。
まるで全身にある神経が、直江に触れられている場所だけに集まっていくようだ。そうでないなら、与えられる感覚にこんなにも喘がされるわけがないだろう。
「感じているの? 高耶さん」
耳のすぐ傍で囁かれた低音の声に、ぞくりと高耶は身体を震わせる。こんなことは嫌なのに、こんなことはおかしいのに、声だけでどうして肉体は喜んでしまうのだろう。
このままでは本当にまずいと思った。
身体の奥にある神経が疼いているのだと気付いて途端に怖くなる高耶は、震える手で自分の肌を撫でる直江の手をぎゅっと捕まえる。よかった――今度はちゃんと腕が動く。
流されるわけにはいかなかった。
けしてこんな行為を彼に許してはならない。直江が自分を組みしき下卑た行為に及ぼうとする理由を、高耶はいまだはかりかねていたし、到底受け入れられようはずがないのだから。
抵抗しなければ。
正体の分からぬ情欲に惑わされたりなどしてはいけないのだ。
「やめろ直江……っ、いやだ!」
捕らわれた両手を無理に動かして直江の腕を払うと同時。ばちっと派手な音をたてて、高耶の放った力の閃光が暗い室内を眩しく照らす。まともに衝撃を受けたであろう直江はとっさに高耶から手を離すと、僅かに眉をひそめた。
見れば破れた直江の袖口から覗く腕には小さく裂傷が走り、そこからはうっすらと赤い血がにじんでいる。
「直、江……」
怪我だなんて、させるつもりはこれっぽっちもなかったのに。
傷口を茫然と見つめる高耶は、かける言葉をみつけることができずに口唇を噛む。
「大したことありませんよ、これくらいの傷すぐに治ります。貴方も随分と力の使い方が上手くなったじゃないですか、こうして加減ができたんです。貴方に本気で抵抗されたなら、私の身体は今頃吹き飛んでいますよ」
直江の声を聞けば分かる。皮肉のようにも取れる言葉に嫌味は少しもなく、それはむしろ高耶を気遣う色さえ含まれるものだった。
だからこそ余計にいたたまれない気分になる。
自分に否はないのだと主張したいのに、彼を傷付け、そして許されてしまったなら、やり場のないこの気持ちをどうしたらいいというのだろう。
「高耶さん?」
行き場をなくした気持ちを持て余し、高耶は逃げ出すように直江の身体を押しのけてベッドから這い出る。
「帰る」
短く一言。もはや予定されていた打ち合わせのことなどどうでもよくなっていた。そんなことよりも自分が本当におかしくなってしまう前に一刻も早く彼の元から去りたい。
無理に立ち上がったからだろうか。身体を支える足元がふらついていたけれど、もうこれ以上彼と二人きりの空間にいることが耐えられなかった。
「お待ちなさい」
「打ち合わせもしないんじゃ、ここにいる意味なんてねえよ」
「そんな恰好でどこに行こうと言うんです? 今夜はここに泊まっていけばいい。貴方が望むなら、私は別の部屋に移りましょう」
「ふざけんな、こんなとこに誰が泊まっていくかよ」
「今自分がさらしている姿も知らずにそういう台詞を言うものではありませんね。鏡を見てごらんなさい、今の貴方はとても扇情的な姿をしていますよ」
なにを馬鹿なことを。そう思いながらもゆっくりと鏡の前へと歩み寄り、壁に取り付けられた大きな姿見に映る自分を目の当たりにした瞬間、高耶の喉がごくりと鳴った。
暗がりでも分かる。上気した頬に、とろりと潤んだ瞳。
Tシャツの大きく開いた襟ぐりからは、首筋から鎖骨までのラインが隠すものなくさらされ、肌には赤くうっ血の跡が生々しく残されていた。
そこに映っているのはまぎれもなく自分自身であるのに、あからさまなまでに性的な姿であるそれは、まるで高耶ではない別の人物のように思えてぞっとする感覚に襲われる。
違う。
こんなのは自分じゃない。
こんな気味が悪い姿はけして高耶が望んだものではないのだ。
高耶は姿見の隣に設置されたクローゼットを無断で開けると、中にかけられていた直江のジャケットを掴みとってそのまま部屋を飛び出す。
直江は引き止めなかった。
何と言って引き止めたところで、高耶が抵抗することは分かっていたのだろう。
それなのになぜ直江は、高耶が嫌がると知っていてこんなことを仕掛けてくるのか。
高耶は彼のジャケットを羽織り、首元を隠すように手でジャケットの合わせを縫いとめると足早にホテルを後にする。訳も分からずこみ上げる悔しさに口唇を噛みしめ、心の中でしか吐けない暴言を何度も何度も繰り返した。
自分は何も悪くなんかないのに、こんなにも後ろめたい気持ちにさせられるなど理不尽以外の何者でもない。
ふわりと、羽織ったジャケットから立ち上る直江の香りが、今の高耶には恨めしかった。いつもなら安心感をもたらしてくれるはずなのに。
この匂いに、今も空に輝く満月に、今夜の自分は狂わされてしまったのだ。
でなければ、こんなにも身体が疼くはずがないだろう。
しかし、この時の高耶は何も分かっていなかった。
自分がひどく発熱していると気付いたのは、高耶が自分の部屋へとたどり着いてからのことだ。
あえて体温計で熱を計ったりはしなかったけれど、高熱の影響だろう。ぐらぐらと視界が回っていた。
うまく手足が動かなかったのも、身体が変調をきたしていたからのようだ。
当然、直江はかなり早い段階で高耶が発熱していることに気付いていたのだろう。ならばあんなにも回りくどいやり方で高耶を引き留めようとしなくともよかったはずなのに、意地が悪いにもほどがある。
なんて分かりづらい男なんだろう。
熱があることを察していたなら、そう指摘してくれたらよかったのに。発熱しているようだから今夜は打ち合わせを中止してここで休んでいけと、そう簡潔に伝えてくれていたなら、高耶だって直江の言葉に従っていたはずだ。
満月の光がなんだのと無駄話だけを持ち出して、あんないやらしいことまで仕掛けてきて、遠回りなそんな行為では高耶が気付くはずがないのに。
高耶にとっては都合のいいことに、それから数日の後。直江は調査のために地方へと出かけていったと、自分の元を訪ねてきた綾子から報告をもらった。加えて、しばらくの間は戻らないだろうと。
詳細を聞けば、とても一人で請け負うような仕事量ではないように思えたが、直江は一人で事足りるから後のことは頼むと綾子に伝えていったようだ。
打ち合わせをしたいからとホテルへと呼び出されたあの日、直江はその調査旅行についての連絡をする予定だったのだろうか。本当は自分が熱を出したりしていなければ、一緒について来いと伝えたかったのではないだろうか。
綾子だけに伝言を残して行ってしまった直江を思って表情を曇らせていると、高耶の様子がおかしいことを察してあれこれと世話を焼いていった綾子だったが、それは余談である。もっとも熱は随分と下がっていたものの、まだ本当に具合が悪かった高耶だったので、数日分の食事の用意を済ませてくれたことが有り難かったわけだが。
直江が一人で調査旅行へ出たという連絡さえも間接的にしか受け取らなかった高耶は、必然的にその後の行動は綾子と共にしただけだ。千秋は相変わらずのワンマンプレイだったし、緊急の用事でもない限りこちらから彼に連絡をとったりはしない。今日偶然街中で千秋の姿を見つけなければ、高耶だってわざわざ千秋のところへと出向いたりはしなかっただろう。
直江と自分の間に起こった事情など何も知らない綾子だったからこそ、それとはなしに直江の様子を尋ねることはあったけれど、なんとなく綾子相手には直江とのいざこざを悟られたくはなくて突っ込んだ話は出来ずじまいだった。だからと言って千秋ならばいい、というわけではないのだが。
とはいえ千秋に会いに行った時点で、無意識でこそあれ彼を頼ってしまったという事実に間違いはないのだろう。
傷をつけることは本意ではなかった。
そのことに関してだけは、詫びる気持ちはある。けれど、抱えた後ろめたさと、辱められたことへの悔しさと気恥ずかしさに、直接直江へと連絡を入れる気分にはとてもなれなかった。このままではいけないと、そうは分かっていても自分は何も悪くないのだと信じているから、高耶から折れてやろうとは到底思えようはずもない。
それもそうだろう。高耶の意志を無視して、あんなことをされる理由なんてどこにもないのだから。
そうしてずるずると時は過ぎて、直江を避け続けて半月以上が経過してしまった今。
よもや千秋を見つけたことがきっかけとなって直江と鉢合わせてしまうだなんて。
「もう、身体の方は大丈夫なんですか」
「……ああ」
「それはよかった。長秀、今日の打ち合わせの日程は」
「ああ、また連絡する」
「そんなことを言って。決めておかないとお前はすぐにあれやこれやと言い訳をして捕まらなくなるじゃないか」
直江によって腕を掴まれたままの高耶は、逃げ出すこともできずに直江と千秋が交わす事務的な会話を複雑な思いで聞いていた。
自分こそ、腕の怪我はもういいのだろうか。
高耶はこの一ヶ月弱、あれこれと思い悩んでいたものだが、直江ときたらまるで先日のいざこざなど感じさせない普段通りの態度だ。
それがどうにも気に入らない。
「痛ぇよ、離せ」
もう体調は万全である。直江が千秋との話に集中している隙にぐっと力を入れて腕を振り払えば、直江の手からはあっさりと逃れることができた。
その瞬間直江は目線だけをこちらに向けて高耶を非難するような表情をしたけれど、そんな視線には関せずつんと顔を背けて直江との間に距離をとった。強引に触れておきながら、こちらが非難がましく見られる謂れはないだろう。なぜ、いつもいつも自分の方に否があるような気分にさせられなくてはならないのか。
「おい、景虎」
「なんだよ」
次の打ち合わせの日程は決まったのだろうか。
気付けば二人の会話は終わっていたようだ。直江との距離をとった高耶の元へ、今度は千秋が近づいてくる。
「今回のことは貸しにしといてやる。次会った時には倍返ししてもらうぜ」
「倍返し?」
「お前のコーヒー代だ」
たかだか珈琲の一杯くらい――そう思う高耶だったが、今回の分は千秋の方にあると分かっているので文句は言わなかった。
とはいえどうして倍返しせねばならないんだろう。
「天下の往来で、あんまりいちゃいちゃしてんじゃねえぞ」
「誰がそんな真似するかよ!」
「はいはい。――無自覚ってのはまったく性質が悪いぜ、なあ大将?」
去り際にぽん、と高耶の肩に手を置く千秋が吐き出した最後の一言は、明らかに今までのトーンとは違うものだった。どういうことだと、その意味を問いかけようとしたけれど、高耶の傍を通り過ぎていった千秋はこちらに背中を向けたままにひらひらと手を振ってあっという間に遠ざかっていく。まだ帰ってくれるなとは言えるはずもなく、小さくなっていく彼の後ろ姿を非難がましく見つめることしかできない。
「……なんだよ、千秋のやつ」
残された高耶は、行きかう人々の波の中へと紛れて行ってしまった千秋に向かって届かない愚痴を零す。打ち合わせの予定があったのなら、直江の調査旅行の報告も兼ねて、今日三人で済ませてしまえばよかったのではないか。普段はどうにも反発してばかりだが、千秋がここにいてくれたらなら高耶も少しは気が紛れただろう。
「厄介な男に貸しを作りましたね」
「誰のせいだよ!」
少なくとも、第三者というクッションがあったなら、こんな風に苛立ちを直江に直接ぶつけることもなかったはずだ。
「機嫌が悪いんですよ。この一ヶ月、随分と長秀を連れまわしてしまいましたからね」
「え……」
「長秀から聞かなかったんですか? やはり私一人では手が足りないことがありましてね、こき使ったのが気に入らないんでしょう」
「……それって」
「いくら私だって、病に苦しんでいる貴方に負担をかけたりはしませんよ」
精神的な負担ならこのひと月かけられっぱなしだったのによく言う男だ。
けれど高耶は知らなかった。
一人気ままに行動していたと思っていた千秋は、高耶の代わりとなって直江のサポート役に回っていたらしい。
それなりの時間を喫茶店で一緒に過ごしたというのに、千秋はやはり、そんな事実は微塵もにじませなかったけれど。
これは倍返しなのも仕方がないだろうか。
「高耶さんが気にすることはありません。長秀も貴方が体調を崩していたことは知っていますよ」
「……コーヒー、おごらせちまったんだ。その借りくらいは返しておく」
借りを作っておくのは好きじゃないのだと告げると、直江はくすくすと笑い出す。
おかしな発言をしたわけではない。
何も笑うことではないだろう。
ホテルであんな行為に及びながら、なんでもない顔をして高耶の前に現れて、あの日のことなどすっかりと忘れてしまったような態度だ。体調が悪かったから調査旅行には自分ではなく千秋をパートナーにしたなどと、まるきり高耶の方に落ち度があったような言い方じゃないか。
むっとする高耶は、途端に二人きりで突っ立っている状況に嫌気がさしてきて、直江に背を向けると喫茶店の前から表通りを歩きはじめる。
直江のことが気懸かりだったのは確かだ。
だからといって、直江に会ったら謝らなければならないだなんて考えて彼の様子を気にしていたわけではない。反省して謝罪の言葉を用意しなければならないのは、むしろ直江の方だろう。
「待ってください」
「もう打ち合わせするような案件があるわけでもないんだろ。だったら俺は帰る。それともこの前のアレ、詫びのひとつでもしてくれるのかよ」
「そうですね。――高耶さん、これからの予定は空いているんですよね」
「……空いてる、けど」
「食事にでも行きませんか。もちろん、貴方が食べたいものなら何でもいいですよ」
直江の返答に、高耶はそこで足を止める。
直江に背を向けていたからこそ、提案したことだった。腹が立っていた勢いというのもある。
このままでは直江の意見に流されてしまうと思った。本当は二人きりになってしまうことほど気まずいことはないのだけど、言った手前引っ込みもつかない。
日は少し傾いていた。
暗くなるのも時間の問題だろうか。
高耶の脳裏に、あの日ホテルで濡れた口唇が首筋へと押し付けられた生々しい記憶が蘇る。思い返しただけで、ぞくりと身体が震えるようだ。断じて快楽を感じていたからではない、不快な感覚だったからこそである。
別に、彼を警戒しているわけではない。もしも今度直江がおかしなことを仕掛けてきたなら、抵抗するだけの力は持っているはずだ。
夜になってしまう前に飲食店で食事をするくらいなら、先日流れてしまった打ち合わせをするついでに付き合ってやってもいいだろうか。
「お前の奢りだろうな?」
「もちろんです」
高耶が後ろを振り返ると、直江は優しそうな微笑を浮かべていた。そんな姿を見ると、この男が自分に対して得体の知れない感情を抱いていることなんて忘れてしまいそうになる。
あれは直江が性質の悪い悪戯をしただけ。このまま、優しい感情を抱いたまま、自分たちは歩んでいけるのではないだろうかと。
なら行きましょうか、と高耶に声をかけて前を歩き始める直江の後ろについて、高耶も足を踏み出す。
高い建物に隠れて見えなかった、歩き始めてビル街の隙間から見えた南の空には、青空の中で白く光る上弦の月を見つけることができた。
満月まであと少し。
あと一週間もすればまた明るく輝く丸い月が、夜空を彩るのだろう。
高耶は昼の白い月を睨むと、歩きながらその美しい姿に向かって思い切り舌を出してみせる。
「悪ぃが、今夜は狂わされたりしねえぜ」
子供じみたその行為で、ほんの少し高耶の心が晴れた気になった。
「どうかしたんですか、高耶さん」
「なんでもねえよ」
小さく呟いた言葉は直江にまでは届かなかったようで、振り向いた直江を軽くいなして先を急がせる。
このままの関係でいることができたらどんなにいいだろう。
直江と共にいる心地よさを手放すことが、いつしか怖くなっていた。だからこそ、見たくないものには蓋をして生ぬるい理想だけを見つめていたかった。
いつかは失ってしまうもの。そんな予感を胸に抱いていても、少なくとも今高耶の前にいる直江は、都合のいい夢を見させてくれる甘く優しい存在だ。
高耶は心の底にある感情からは目を背けたまま、前を行く直江の広い背中を追いかけた。
***
後半へ続きます。
2013.05
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