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■雨
アルベールとケンカしちゃったフランツ。
駆け込み寺は、いつでもリュシアンのところ、笑。
巌窟ネタは、大概暗いなぁ…!!爆。
***
昨晩から降り止まない雨の音が、部屋の中にまで響いている。そのせいか、寝台の横の窓からは、朝方だというのに薄い光しか差し込んではこなかった。
「……雨は嫌いだ」
寝台の上、フランツはどこか虚ろな目で窓の外を眺めたまま、掠れた声を零す。肩によれたシャツを引っ掛けただけの姿で上体を起こし、落ちていく雨を見ている。いや、焦点の合わない瞳に映るのは、そこに見える雨粒などではないように、リュシアンの目には映った。
「風邪をひく。もう少し眠ってろ」
随分と寒くなってきたパリに降る雨は、身に凍みるように冷たい。陽の温かさを遮ったまま、部屋の温度は朝になって更に下がっているようだ。フランツに引っ張られてずれたシーツに、リュシアンの肩までが冷えていく。
「寒いだろう?」
リュシアンの声は耳に届いていないのか、フランツはなおも莫迦みたいに窓の外を見続けていた。
まだ目覚めるには早い。もうしばらく眠ろうかと目を閉じてみるものの、急速に肩を冷やしていく空気には勝てず、リュシアンは小さく嘆息を漏らして寝台から起き上がる。シーツから出た瞬間全身を襲う冷気に、ぶるりと肩が震えた。
そのまま一度も使われていない暖炉の前を通り過ぎて、空調機のスイッチを押す。雨脚は昨日より弱まってはいるものの、静かなモーター音は、やはり雨音に掻き消されていった。
城壁の中の生活は、何かと非合理的だとリュシアンは思う。空調機を忘れてしまったかのように暖炉に火を入れるのもそのひとつだ。そして、それは物質的なことにだけ言えるわけではない、と。
動かないフランツをちらと見てから、リュシアンはソファーに投げ捨てられていたシャツを羽織る。肩よりもずっと冷たいそれに顔をしかめて、同じく投げ出されたジャケットを手に取る。シャツを掛けている分素肌よりはましだろうなどと考えながら、もう冷え切っているだろうフランツの肩にそれを掛けた。
それでも彼からは少しも反応がないままだ。端正な横顔からは、フランツのどんな感情も表れてはいない。
「待ってろ、コーヒーでも入れてやる。好きだろう?」
フランツには届いていないだろうと分かった上で、声を掛けてキッチンへと進む。
――早く止めばいい。
重い空と雨を一瞥して、心の中でそう呟くだけだ。
激しさを増す雨の中やって来た昨夜のフランツに、普段との相違点は見当たらなかったとリュシアンは思い返す。呼び出しもなくここへ来る日に、彼があまり明るくない表情を浮かべていたのは、なにも昨日に限ったことではない。
ただ雨が、降っていただけだ。陽を遮る雨が。
「ほら」
雨と、昨日の生々しい情事の匂いを消していくように、フランツに差し出されたカップから芳ばしい香りが広がる。
声も、立ち上る柔らかな湯気も、フランツには多分届かない。ならば香り、それとも熱ならあるいは?
差し出されたそれは、リュシアンが他の誰に見せることのない甲斐甲斐しさだろう。
ほんの数秒の沈黙の後、雨の向こうにある何かを追い続けていたフランツが、辺りを包む香りに息を吸う。
降り続く雨はまだ止みそうもない。いくらフランツが眺めてみたところで、彼が求める影は見つけ出せない。
相変わらず目線は中に向かないままだが、ゆっくりと動いた肩と胸を見下ろして、リュシアンは小さく息を吐いた。
「――悪いけど、俺は紅茶派だ」
不意に、全ての感覚が戻ったように発せられた言葉に、リュシアンの片眉が上がる。感情は少しも含まれてはいないが、口ぶりはしっかりとしたものだ。
「……お前、聞こえてるんじゃないか」
若干の空回り感に溜め息をひとつ。コーヒーが好きだと言ったのは誰だったかと、この場となっては詮無いことに思考を巡らせながら、フランツの横にどかりと腰を下ろした。
「あいにく、紅茶は切らしてる」
文句を言わずに飲めと、もう一度カップを差し出せば、ようやくフランツの視線がカップに落ちる。部屋が暖まったからか、二人を取り巻く空気がぐっと柔らかくなった気がした。
しかし、カップを受け取ったフランツの目に映るものは、やはり温かなコーヒーなどではない。
いまだに焦点の合わない瞳で、フランツは湯気を広げる表面を見つめるだけだ。どれだけ目を開けたとしても、焦がれる残像は瞼の奥でぼやけていく。その感覚がフランツの胸をじわりじわりと締め付けていた。
雨が奪っていくのは光と熱。雨が奪っていくのは走り去った愛しい人の残像。
雨が止んだなら、追い掛けていけるのに。
微かに動いたフランツの口唇が呼んだ名前は、音にはならない。力無く、空気となって消えてしまう。
もはやフランツの様子が常軌を逸していることを、リュシアは否定出来なくなっていた。
「……おい、大丈夫か」
途端に漠然とした不安に駆られたリュシアンが、フランツの頬を両の手で包む。皮膚を通して伝わるひやりとした感触に、つい数時間前までの熱さは少しも感じられない。
「陽を隠す、雨が嫌いだ」
暗く残酷な想いに捕われたまま吐き出された声は、悲痛に満ちている。言わんとすることを何となく察して、せめてもと、リュシアンは頬を包む手に力を入れた。
「ただの喧嘩だったのに。いつもと何も変わらない、はずなのに。あいつは無意識に感じ取ったんだ……俺がいつもと違うって。だから雨の中に飛び出していった」
何も気付かない、何よりも純真な彼に、衝動的に走った狂暴な気持ちがフランツは恐ろしかった。
――雨が降っているのだ。あるべき陽の優しさを消す、冷たくて鋭いものがフランツの身体のうちに。
潔癖なまでの愚かしさに、莫迦かと一蹴してやりたい気持ちをリュシアンは胸の内に沈める。
冷たい雨と温かな陽に自分達を縛り付けたまま、フランツは自由なはずの想いを見失っていた。凌駕していく黒い闇を前に、彼はまだあまりに純粋すぎるのだ。
「もう一晩ここに置いてくれないか」
結局手を付けられていないカップをナイトテーブルに預け、リュシアンは小さく呟いたフランツを胸に抱く。冷えた肌を温めたくて、背にまわした腕はシャツの下に埋めた。
触れる指先で優しく撫で上げると、ぴくりと反応して顔を上げたフランツと目があう。まだなお温まらない身体でも、その瞳に映るのは自分の姿だった。
――大丈夫だ、雨が止んだなら。
抱きしめる彼を安心させるように、己を納得させるようにリュシアンは言う。
「いればいい。この雨が上がるまで」
降り続く雨はパリの朝を静寂で包み込んでいる。
目を閉じたフランツが感じられる世界は、確かにここに在るはずだ。
***
リュシアンは器用そうで、無器用(笑)
2006.7
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