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■ある夜のお話
はじめて書いた奈美先生。
女の人視点が、そもそもはじめてでした!(多分…
そして花ちゃんも初かしら…!?
はじめてだらけの一作ですwww
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「ぐったりしてるの? そう、ちょっと心配ね。うん、大丈夫だから連れてきて。深夜料金はまけといてあげるから」
受話器を置いて、奈美は壁に掛けられた時計を見上げる。時刻は午前一時をまわったところだ。
日付が変わってようやく静かになった診察室に響いた電話音は、花咲からの緊急コールだった。預かっている赤ん坊が発熱したらしい。熱はそれほど高くはないものの、ぐったりとして呼吸が荒いという。子供の発熱はその高低よりも、平生と比べて様子に変化があることの方が問題だ。
もう今日の診察は終わったと、消毒をしてきちんとガラス棚の中に収めた医療器具を再び取り出し、奈美は花咲が抱えてくるだろう赤ん坊の診察準備を始める。
自宅として使っている部屋の方へ戻るつもりだったけれど、この分では今夜も診察室で眠ることになるだろうか。
この仕事に、休みはない。
深夜だろうが早朝だろうが、緊急のコールがあるならどんな治療行為も厭わなかった。むろん、春日組から声がかかれば拒否する権利など奈美に与えられているわけもない。この診療所の提供者は春日組である。
それでも、奈美にとってこの仕事に従事することは生きる意味そのものだった。保険医資格は奪われてしまっても、情熱までは誰にも侵すことはできない。それが奈美の生きがいなのであり、プライドである。
「……しょうがない、タイムリミットね」
乱れた髪をしばり直して、ハンガーにかけられた白衣を羽織る奈美の背後から、ごくごくわずかな寝息が聞こえる。
設置された一台の診察台の上には、背中をまるめて眠る山内練の姿があった。こうして眠っているだけならば、誰が彼こそ天下に名を轟かす春日組若頭その人だと気付くだろう。
長い睫毛、なめらかな肌。
こんな歳になってもなお、女が嫉妬するほどの綺麗な横顔だ。
眠れないから薬をくれと、彼が診療所を訪れたのは二時間ほども前のこと。けちな喧嘩で大きな切り傷を拵えてきた組員の男の処置に追われていて、しばらくは練の相手をする暇がなかった。少し待っていてと、声をかけたきりほったらかしにしていたわけだが、治療の終わった男を見送る頃には、練は勝手に診察台へと上がってその場で眠り込んでしまっていた。
どれだけ飲んできたのか。彼の身体からはきつくアルコールの臭気が漂う。
薬なんか処方しなくても眠れたなら何よりだけれど、酒臭い男にこんなところで熟睡されては迷惑という他なかった。眠れるくらいならわざわざここへ来ることはなかっただろうに。
けれどその時にはまだ、練は眠れるだけの何かを求めていて、一人で長い夜を越えるためには彼の心身が限界を迎えていたのだろう。
「ちょっと。眠りに来ただけならさっさと帰ってちょうだい」
診察台の傍へと寄り、練を見下ろす奈美は彼を起こすために幾分声を張り上げる。
ようやく眠れたのであろう練を無理に目覚めさせることに忍びなさを感じないわけではないけれど、朝まで寝かせてやるほどの義理もない。
「――赤ん坊が……」
「そうよ、赤ん坊よ。寝てると思ったけど起きてたの? 今から運ばれてくるのよ、アル中の男に構ってる暇なんてないんだから。貴重な診察台ひとつ、あんたなんかに占領されちゃ迷惑なの」
「……園長のとこか」
「夜になって急に様子がおかしくなったって。熱はそれほど高くはないけど、ぐったりしてるんだって」
まだ夢うつつなのか、うっすらと開いた瞼の奥にのぞく練の視線はうつろだ。
身体をまるめたまま、両の腕で腹のあたりを抱えて身じろぎひとつ取らない。いつにもまして彼の様子がおかしいことは一目瞭然だったが、飲みすぎた酒のせいなのか、それともまだ目覚めきれていないせいなのか判断はつかなかった。
「なんなの、さっきからそんなに丸くなって腹でも痛むの? 鎮痛剤くらい追加してあげるからさっさと帰ってくれない?」
「赤ん坊が――」
「もう、そうだって言ってるでしょ、分かんない男ね。だから邪魔なのよあんた」
「違う。そうじゃなくてここに、いたんだ。腹ん中が熱くて……ほんとにいたのに、目が覚めちまうまでは」
ぐっと低いトーンで、練が抱きかかえている腹の辺りを見つめて重苦しく告白する。
この男は一体何を言っているのか。
練の言葉が瞬時には理解できなくて、早く出て行けと、次に続くはずだった言葉を奈美は思わず飲みこんでしまう。
――その腹の内に?
――目覚めるまでは?
いまだ覚醒しきらない呆けた頭で、この男は寝言でも呟いているのだろうか。
てっきり彼は花咲からかかってきた電話の内容を聞いていて、だから奈美の言葉に返答したんだと思ったのに、そもそも会話は噛み合っていなかったのだろうか。
「何がいたって?」
「だから、赤ん坊がさ」
酒やけだろう、がさがさと擦れた声で練は奈美の問いかけに答える。
彼はすっかり目覚めていた。
様子がおかしいことは否定する気もないが、夢うつつではなくちゃんと奈美に向かって言葉を発している。
「……あんた、酒と薬の飲みすぎでとうとうおかしくなっちゃったの?」
練が言わんとしている、眠った彼が見たのであろう夢の内容を把握するには、たっぷりと一呼吸分の時間がかかった。いや、正直しょうもない話だとその瞬間に分かったから、深く考えたくはなくてそこで思考を故意に停止させてしまう。同時に、理解しようとすれば頭が痛くなるほど突拍子もない幻を口にした練に対して、深いため息が奈美の口から漏れた。
今までだって、これからだって、この男と馴れ合うつもりはない。練にどんな過去があっても、今どんな事情を抱えているのだとしても、奈美には興味がないことだ。練のことを知らないわけではない。知ろうと思わなくても伝わってきた話ならたくさんある。そうして望んだわけではないのに理解してしまったこともある。
彼の抱える闇は、とてつもなく深かった。
おそらく、彼に手を差し伸べるには半端ではない覚悟が必要なのだということも分かっていた。
けれど少なくとも、同じように愛した人を亡くしてしまった痛みはこの男と同じもので、だからこそ奈美はこの男を愛してやろうと思った。多分、自分にできるのはその程度のことだけで、それでも韮崎の遺した想いを引き継いでやりたかったのだ。
練へ向ける愛情はけして分かりやすく形のあるようなものではないけれど、一度芽生えてしまった情けがあるから、どうしようもなくこの胸がざわつく。
いつだって練は苦しそうで、それを酒と薬でなんとか誤魔化して、いつ死んだっておかしくないような顔をして、今夜は自分の腹に赤ん坊がいたのだと現実ではありえない夢の話を聞かせる。
無論、夢なんていつだって笑ってしまうほどにくだらないものだけれど。
「……ばっかじゃないの。女でもないくせに」
余りあるほどの札束を積んだところで、世の中にはどうしたって不可能なこともあるだろう。厄介なことほど、金では解決できないことばかりだ。
男のくせに、脳にまでアルコールが回ったんじゃないのかとこき下ろしてやろうと思ったのに、なぜか喉が詰まって言葉は続かなかった。
会話で繋げない間に困って、奈美は練からふっと視線を逸らす。
そんな夢を見てしまうだけの苦しみが今の練にはある。彼が抱える事情なんて知ったことではないけれど、その苦痛だけは奈美にもリアルに感じられるのだ。
起きていても眠っていても苦しむのならば、彼の救いはいったいどこにあるのだろう。
「あんたの口からそんな話を聞いたって、可愛らしくもなんともないのよ」
ちらりと、横目で見た練の表情は歪んでいて、ともすれば泣き出しそうにも見てとれた。
否、そう思えただけかもしれないけれど。
「奈美先生!」
重く、停滞してしまった室内の空気を霧散させたのは、ばんと乱暴に扉を開けて飛び込んできた急患の声だ。
赤ん坊を抱いて訪れた花咲の存在に、奈美は思わず安堵する。
「熱、さっきより上がってきてるんだ……って、」
「すぐ診察するわ。いいの、こいつはどかすから」
子供を抱きかかえた花咲の視線が、診察台に寝転んだままの練の方へと向く。なぜここに練の姿があるのかと、何かを言いかけた花咲の口は奈美の言葉に遮られたままぽっかりとだらしなく開いたままだ。彼としては、天敵のようなこの男に好んで会いたくもないだろう。
赤ん坊が運ばれてきたことでいよいよ強硬手段に出ざるを得なくなって、奈美は強い力で練の背中を押すと、診察台からそのでかい図体を床へと転がしてしまう。
「乱暴すんじゃねえよ」
「なによ、反応が鈍いわね。あんたが寝ぼけてるから悪いんじゃない」
預かった赤ん坊を酒の残り香がついてしまった診察台に寝かせても、練はまだ床の上から起き上がることができない様子だった。足元に、邪魔なことこの上ない。
「お母さんに連絡はついたの?」
「連絡はしたさ。でも仕事中なんだ、明日の朝までは戻れないからって。ああ、泣かないで、大丈夫だよすぐに楽にしてあげるから」
花咲に髪を撫でられている赤ん坊が、真っ赤な顔をして泣き声をあげる。
「ぐったりしてるって言うから心配してたけど、泣ける元気があるなら大丈夫かな」
自然、愛らしい小さな姿を見れば笑顔になってしまうと言うのに、
「――ったく、頭に響く」
診察台の下から聞こえた練のつぶやきにむっとして、奈美は無言でその身体を軽く蹴りつけてやった。うっと、わざとらしいうめき声が聞こえたけれど、力なんてほとんど入れていなかったから反応は返さない。
赤ん坊の肌に聴診器を当てる頃には、練の面倒は花咲に任せてしまうことに決めた。
「しゃ、社長は、その……なんでここに」
「俺みたいな人間が診察を受けにくるのはそんなにおかしいか」
「い、いえそんなことは」
「ねえ花ちゃん。邪魔だからこいつ、外に放り出してきてくれない?」
「え!」
「園長の手なんか借りなくたって出て行くさ、今出てく」
のそりと緩慢な動きで立ち上がる練を見かねたのか、花咲が練に手を貸している。口ではああ言っておきながらも、練は素直に花咲の手を借りているようだった。
「あんたの薬、机の上に置いてあるから持ってって。鎮痛剤は必要ないでしょ? ちょっとの間酒は我慢してよね。馬鹿みたいな夢、見なくて済むように」
口に出してしまってから、医師という立場からというよりもずっと情がこもってしまったことに気付いたけれど、そう伝えたところで喉奥に感じる圧迫感を取り払うことはできなかった。
挨拶の代わりだろうか、薬の入った小さな紙袋をジャケットのうちにつっこむ練が、軽く手をあげて扉の向こうへと消えていく。去っていく彼には見えないだろうに、花咲は練の背中へ向けて会釈を返していた。
マンションから出た途端に路上で倒れこんでしまうのではないかと思うくらいに練の足取りはおぼつかないものだったけれど、ここを出た彼はもう、誰の手も借りずに長い夜に立ち向かっていくのだろう。
馬鹿な男だと軽口をたたくことは簡単なことだけど。
「――あんたほど間違えて生きてる人間もいないわよ」
「……奈美先生?」
「なんでもない。ただの悪口よ」
悪魔のようなあの男を、知れば知るだけ不思議と愛さずにはいられなくなる。
誠一が、狂気と思えるほどの愛情も激情もすべての感情を注いで執着した男だ。誠一がいない時間が一日、一日と増えていっても、いっそう練は彼自身を縛り付けている何かに絡まって身動きがとれなくなっていくようだった。
生きていく彼に手を差し伸べてやることは、自分の役目ではない。
彼を支えてやれるだけの誰かは、今夜どこにいるのだろう。
その誰かも同じように、出口の見えない練の夜に苦悩しているのだろうか。
アルコールの匂いだけを残していった練はもういないというのに、相変わらず胸のうちは落ち着かないままで、奈美は目の前に横たわる愛すべき存在へと意識を集中して晴れない心から目を逸らした。
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さて、この日の龍太郎はいったい何を……なんてw
2014.08.12
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