■果てない夜

  聖なる黒夜、バレンタインのお話です!
  2月14日のとらえ方も色々妄想してみたのですが、これもその中のひとつの妄想として、流していただけると幸いです(笑)
  ←毎回皆様のスルースキルが問われる『腐義徒然』、それでいいのか!
  たまらない消化不良に喘ぎながらも、まだ龍太郎強化月間継続中なので(気分とは裏腹に、笑)、龍太郎を少しでもかっこよく書けていたらいいな……っ
  
  
  ***



「いらねえ」
練がそう吐き捨てた直後、環の顔が歪んだことが見てとれた。
「せっかく人気店に並んで買ってきたのに、社長は私の好意を拒否するんですね?」
「頼んでねえだろ、買ってこいなんて」
「あら、随分な言いようですね。バレンタインに前持ってチョコをねだる男なんてのはろくなもんじゃないけど、でも、女心を踏みにじるのは、もっと最低だわ」
バレンタインにチョコレート。
あまり気持ちのいい思い出はない。
もちろん、環はチョコレートにまみれたバレンタインの夜のことを知らないのだから、八つ当たりしたって仕方がないのだけど、朝から気分が重いのだ。
きっと、飲み過ぎたせいだけではないだろう。
夢の中に誠一が現れて、冷たく痛い線路の温度と、ねっとりと肌を染めたチョコレートの熱さと不快感だけが今も生々しく思い出された。こんな夢は、しばらく見なかったというのに。
「俺のために並んだんじゃねえだろ。ついでに買われたもんなんか欲しくないって言ってんだ」
「これはちゃんと社長のために選んだわ。並んだのは社長のためじゃないけど」
そういえば、昨年のこの日も、練は環からのチョコレートを受け取らなかった。もっとも、事前に必要かどうかを尋ねられたから、要らないと返答したに過ぎないのだけれど。
勘のいい彼女のこと、練の過去の詳細など知らなくとも、練がバレンタインという日を快く思っていないことは百も承知だろう。
これが嫌がらせなのか、それともそうではないのか、環の日々の行動から考えれば判別しがたいところだが、少なくとも悪意は微塵も感じられなかった。
「とにかく、返されても困りますから。義理なんだから素直に受け取っておいてちょうだい」
「俺の意思は無視かよ」
「何をそんなに嫌がることがあるのかしら、私には分かりませんけど、男なら女を傷付ける行動はしないものよ」
余程、自分はフェミニストではないと吐き捨ててやろうと思ったのだが、環はシックな色の包装紙に包まれたチョコレートの箱を練の胸に押し付け、強引に手渡すと、そのまま素早く社長室から去っていく。
「いらないからって、本命の麻生さんに渡したりしないでくださいね、社長?」
本命、を強調し、皮肉にしか思えない捨て台詞を吐いて部屋を後にした環に、思わず練は黙れと声を荒げた。
しかし、それももうドアが閉まった後という情けない結果に終わってしまい、手元に残されたチョコレートを手にしたまま、一人きりになった室内で思わず舌打ちを零す。
別に、甘いものが嫌いなわけではない。むしろ、好きだという自覚がある。チョコレートだって、例外なく。
しかし、バレンタインというこの日だけが、どうにも好きにはなれなかった。
過去を忘れ去りたくはないからこそ、あまりにたくさんの想いが、二月十四日には溢れてくる。
――そう、環を責めたってどうしようもないのに。
おそらく、彼女は彼女なりに、煮え切らない様子でいる練を見ていられずに背中を押してくれたのだろうに。

練は冷蔵庫にびっしりと詰められたビール缶をひとつ取り出し、きんきんに冷えたそれを一気に半分ほど飲み干した。
いつしか熱くなっていた身体が、急激に冷やされていく感覚が心地好い。
軽くなった缶を片手に、ちらりと横目に見るチョコレートの箱。妙にこちらに向かって存在を主張しているように思える。本当に、どうしてやろうか?
気にせずに食べてしまえばいい。
食べる気がしないならば、ごみ箱に捨ててしまっても構わない。
なのに、そう簡単に割り切れないであれこれと考えてしまうのは、まだ練の中であの夜と今が繋がっているからだろうか。
夢に見たせいで、感覚がまるで昨日のことのように思い出せるような気がして、たまらなく胸が苦しかった。
「……っ」
残ったビールを喉奥へと流し込み、空になった缶を、片手でぐしゃりと潰す。
不意に、瞳を覆った薄い涙の膜で、目の前の景色が霞んだ。
そして、無性に龍太郎に会いたくなった。
今夜、彼と会うことは叶うだろうか?

少しだけ迷った末に、空き缶を手放した練の指は携帯電話のボタンへと伸びる。
通話履歴を随分と遡らなければ目的の名前に辿り着けないことが、ますます練の胸をきゅっと切なく締め付けた。


 +++


練が龍太郎のもとを訪れたのは、夜になってのことだ。
気分乗りはしなかったけれど、どうしても蹴れない会議があった。
とはいえ龍太郎の方も、今日は暗くなるまで張り込みをしていたらしいから、会おうとしたところで、昼間から会うことは不可能だったようだけれど。
「なあ、練」
「なに」
「何回も言うけどな、俺は甘いもんが好きじゃないんだ。お前の好意は嬉しいが、貰ったところで喜んで食べてはやれないんだが」
手渡したチョコレートを前に、龍太郎は困り顔を見せる。
渡した本人は既に腰を下ろし、勝手に出して勝手にグラスに注いだウィスキーを飲みはじめたところなのに、龍太郎はでかい図体と不釣り合いなチョコレートの箱を見つめたまま、当惑している様子だ。
赤い包装紙に濃紺のベルベットのリボンがかけられた箱と、それを持つ龍太郎があまりにミスマッチで、彼が立ち尽くす図は少々滑稽にも見えた。

龍太郎だけは、数年前の今日、何があったかを知っている。

誰にも話したことがなかったあの夜の記憶を、龍太郎にだけは、洗いざらいぶちまけてやった。
線路に横たわったことも、あと少しでこの身体がバラバラに千切れていたことも、そして、誠一と出逢ってしまったことも。
だからほんの少しだけ身構えて龍太郎のもとを訪れたというのに、チョコレートを受け取った龍太郎の反応は、予想外にもほどがあるだろう。
拍子抜けするほどに、あまりに普通なのだ。
「……あんたってば、最高だ」
そんな龍太郎の姿を眺める練は、なんだかとても可笑しくてたまらなくなって、ついつい笑い声を上げた。
「なにが楽しいんだ」
「だってあんた、うん、さすがだよね」
「なにがさすがなんだ、訳が分からんぞ」
「ははっ、最高だってこと」
そう言って、本格的にこらえきれなくなった練は、声を抑えることなく笑い始める。
龍太郎に渡したチョコレートは、もちろん環から押し付けられたものとは別物だ。
わざわざ龍太郎のところへ訪れる前に、閉店ぎりぎり、デパートの特設会場で購入してきた。駆け込みの客は練以外にも多く見かけられたけれど、買いに走ってきたのは女性ばかりだ。だからと言ってチョコレートを買うことに別段意識を回したりはしない練なのだが。
甘いものが好きではない龍太郎を思って、せめても、と、ブランデーが中に詰められたチョコレートを選んできたのだが、問題はそんなことではない。
「おい、いつまで笑ってるんだ」
笑いすぎて痛くなってきた腹を片手でかばいながら、それでも練の笑いは止まらなかった。
「俺、変なこと言ったか、なあ」
「言ったよ、……涙、出てきそう」
朝起きてからずっと、気持ちは晴れなかったのに。思い出に縛られて、あちこちに散らばったたくさんの想いに息が詰まって、窒息しそうで。
なのに龍太郎ときたら!
たった一言、甘いものは苦手だなんて、言うことがそれだけだなんて。
張り詰めた気が、一気に抜けていく。なんだか練は、途端に全てが馬鹿馬鹿しく思えた。
「……練?」
気付くと練は、笑いながら泣いている。
――俺はここに来て、何を期待していたんだろう?
夜へと突き落としたことに対する謝罪か、夜へと堕ちていった自分への罵倒か、それとも生ぬるい慰めか。
いつの間にか、涙が頬を伝って落ちていた。
チョコレートにまみれて我に返ったあの日は遠く、線路に身体を預けた朝の感覚はいまだ近い。
数年前のあの日に出会ってしまった、今は亡き愛しい男と、初めて全ての真実を吐き出した、もう一人の愛しい男。線路は平行線のまま、どこまで続くのだろう。
今になっても、たかがチョコレートひとつに神経衰弱だなんて、あまりに情けないじゃないかと、練は胸のうちで嘲笑する。
どこまでも普段通りを貫いてくれた龍太郎とは対照に、練は身構えすぎて、ようは失敗したのだ。
今日一日、なんでもない振りをしたつもりで、環にも、龍太郎にも、こうして全てが見破られていた。背中を押されてようやく龍太郎の元へやってきて、普段と何一つ変わらぬ態度で龍太郎に出迎えられて、空回りしているのは自分ひとりだけ。
「……馬鹿だな、練」
涙が止まらなくて、練の肩が震えていた。
にじむ視界の先で、龍太郎の腕が手にしたチョコレートの箱を手放し、現実に練へと手を伸ばす。
ほら、この手を素直に求められたなら、自分は救われるだろうか?――そう考えて、痛む心が否を唱える。
まだ、行けない、一生、行けない。
いつしか涙の意味は様々に変化して、ますます止まらなくなっていた。
伸ばされた龍太郎の腕を求めて、指先が微かに震えたけれど、身体はそれ以上動けない。
「どうしてお前はいつもいつも、そう自分を追い詰めるんだ」
ひゅっと苦しい息を吸い込んで、しゃくり上げる身体が龍太郎を欲した瞬間、あっという間に、震える身体は龍太郎の暖かい腕にぎゅっと、力を込めて抱き寄せられていた。
こんなタイミングで、と、練は泣き声を抑えきれなくなる。
「なにも、無理して買ってこなくたってよかっただろう?」
別に、無理なんかはしてない、と思う。
環から渡されたものを持ってくるのはやはり躊躇われたから、新しいものを買ってきたまでだ。仮にも恋人なのだから、それではあんまりだろうと。
バレンタインにチョコレートなんて、日本では企業戦略としてすっかり定着した、恋人同士の定番アイテムだ。何ということもない。過敏になるようなことではない。
「ただ会いに来てくれるだけで十分だったんじゃないのか。過去を思い出して傷をえぐるような真似、しなくたって誰もお前を責めない。心配しなくても、今のお前にちゃんと繋がってる。俺は今、こうやってお前を抱いてやれることを、韮崎に感謝してる。俺も、お前も、何ひとつ忘れてやいないし、だけど練、もう過去のことなんだ。忘れるんじゃない、受け入れて、前に進まなくちゃならない」
淡々と語られた言葉は、まるで龍太郎が自分自身へ言い聞かせているようにも聴こえた。
練を赦すようでいて、最後にはその言葉が、龍太郎が己を責めているようにも聴こえる。
練は抱きしめられた腕の中で、目尻から零れ落ちては龍太郎のシャツへと染み込んでいく涙を、数え続けた。
何滴も、何滴も、次から次へと白い布地へ吸い込まれていく。龍太郎は冷たくないだろうか?――そんな、どうでもいいことばかりを考える。
自分は残酷なことを龍太郎に強いているのではないかと不安が胸をよぎるのに、泣いて流れた涙と共に、それも流れてしまっているのかもしれない。思考が溶けて、どんどんと何も考えられなくなっていくようだった。

結局、練は龍太郎に甘えにきただけなのかもしれないと思う。
謝罪も、罵倒も、慰めも、赦しも、何も要らない。
一人きりではまだこの夜を越えられないと知っているから、酒でも薬でもない、この熱に抱かれるためにここへやってきたのだ。





ひとしきり泣いたら、呼吸が楽にできるようになった気がした。
「俺のチョコレート、食べてくれるんでしょ」
「……食べるさ」
「よかった、俺の愛が拒否されなくて。なんたって本命だからね」
きっと泣きはらした目をしているだろうから、龍太郎の胸の中に顔を埋めたまま、練はいつものように軽い口調で会話を続ける。
龍太郎も、無理に練を腕の中から引き剥がそうとはしなかった。
「お前は、ほら、会社の女の子から貰ったりしないのか」
「貰うよ、今朝一番に環にも無理矢理渡された」
心配しなくても義理だから、と、フォローしてやったのに、
「心配なんかしてないさ」
龍太郎はあっさりと一蹴してくれる。
今更貰った相手が環では、そんな反応も否めないところではあるけれど。
「……で、そのチョコレート。お前は食べてやるのか」
「そうだね。……食べてやってもいいと思ってるよ」
「そうか」
「なに、嫉妬する?」
「するわけないだろ」
「なんだ、つまんないの」

朝までこうして抱いていて欲しいと思った。
冷たいあの朝の温度を思い出してしまえば、この身体が凍えてしまいそうで、漠然と不安に駆られる練は龍太郎を求める。
それがどれだけ練と龍太郎の胸のうちに重い何かをもたらすのだとしても、この夜は多分、二人で乗り越えねばならないのだろう。

バレンタインの夜に隠された真実を打ち明けた日、声を殺して泣いてくれた龍太郎を想って、どうかこれ以上愛しい彼が泣くことがないようにと、心の中で練は祈った。





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  新作で、夜明けに近づくでしょうか…??
  何が何でも練を幸せにしてよね、龍太郎!(笑)
  2010.02.14