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■メンソール伝説A
続きです!
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平常より、だいぶ熱い。
「ほら、言わんこっちゃない」
練の額に手の平をあて、麻生は呆れた声で言った。
「だから、もうやめとけって言ったんだ」
「あんただって、やめる気なんか更々なかったでしょ…、」
言葉が終わるやいなや、激しく練が咳込む。ベッドの上で背中を丸めた彼のそれは、身体の奥からこみ上げる重い咳だ。練を見下ろしていた麻生は、しゃがみこんでその背をゆっくりと撫でた。
息は荒く、身体も熱い。
差し出した体温計は突っぱねられたけれど、随分と熱が高いことは間違いないだろう。
完全に風邪をひいたみたいだ。
「あれは、お前が欲しがるから……」
「なに、そんなことまで俺のせい?」
苦しそうな息遣いのもと、練は必死に文句を繋ぐ。しかし、それはまた、堪えきれない咳によって掻き消されていった。
練をさすりながら考えてみれば、おのずと悪化した原因が明確となるようで、麻生はなんだかいたたまれなくなってくる。
セックスを望んだのは仕方ないとしても、セーブしなければいけなかったのは、麻生の方だっただろう。相手が体調を崩していることは、承知の上だったにも関わらず、抑えることができなかった。
「もういい、喋らなくて。悪かったよ。二人とも羽目を外しすぎたんだ」
素直に言えば、練もむくれた表情を緩めて納得したようだ。彼もまた、素直に応じる。
「……ん」
昨晩は案の定、欲望に忠実になった末に、熱い身体を重ねた。
仕方ないと思う反面、なぜいつも手加減ができないのかと呆れたくもなる。年甲斐なく、ましてや盛りのついた犬猫でもあるまいに。
結局は、恋をしているということに集約されるのだろうか。とすれば、なんとも恥ずかしい話である。
麻生は自分で思うより丈夫な身体らしく、今朝目覚めても、別段異常はなかった。あんなにも口唇をあわせたのに、むしろ、気分がよかったくらいだ。寝不足だということを考慮しても、このすっきりした朝を迎えているとは、なんとも現金なことだとしか言いようがない。
その一方で、元より芳しくなかった練の体調は、当然と言えば当然、悪化してしまったらしい。
「薬……って言っても空腹時じゃな……」
「いい。俺、胃は丈夫だよ」
「何が丈夫だよ、酒でさんざん荒れてるだろ。風邪の時くらい、自分の身体を労ってやれ」
差し出された手を払おうとする麻生だが、その手が求めているものは薬ではないと知るのに、時間はかからなかった。
こちらを見る練の目が、弱々しく縋っている。日常では見ないほど、そこには不安げな色がにじんでいた。
ぎしりと、自分の重みにスプリングが鳴く。
安いベッドの淵に腰を下ろすと、麻生は抗えずにその腕をとってやった。
「龍太郎……」
練は麻生の膝上に頭を乗っけて、腰へと腕を回す。あっという間に、熱い身体はぴったりと、自分の身体にくっついていた。
「なあ、練。もうあまり、時間がないんだ」
「……じゃあ出てくまで、こうしてて」
背中をさすっていた手で、練の頭を撫でると、身体からすっと力が抜けていくのがわかった。
「何か食べて、早く薬飲んだ方がいい。レトルトの粥があるから、それ作ってやるよ。な?」
「いい、そんなん一人でできるから」
あっさりと一蹴されれば、麻生は少々頭をひねる。
出かける時間が近付いていた。予約された依頼者との待ち合わせがあるからだ。
最悪タクシーを呼び出して、事務所から二十分ほどで待ち合わせ場所には着くのだが、出来れば交通機関を利用したかった。なにしろ、薄給探偵である。まだ依頼を受理したわけでもなく、交通費を請求することはできない。
それだけ節約するだけでも、今日の飯代にはなるのだ。
「練」
視界の中、練の髪がふわふわと揺れる。腹に頭をすりつけられ、くすぐったさに似た感覚が生まれた。
「やめろって、シャツがくしゃくしゃになるだろう」
洗い立てのシャツは、次第に練の行為によってよれていくようで、麻生は制止の声を出す。しかし、そこに本気の色は少しも含まれていなかった。
風邪のせいか、いつも自分を掻き回していく練の姿が、不思議と小さく見える。
その姿に沸き上がる感覚は、庇護欲とでも言うのだろうか。すり寄ってくる練が頼りなくて、ますます麻生は、練から離れがたくなっていた。
タイムリミットまでは、あと僅か、なのだが――。
「お前、今日はやけに甘えただな」
「……風邪、だからね」
飽きることなく練の髪を撫で、そういうものかもしれないと、麻生は思った。
体調が悪いと、心までも弱くなるものだ。なんだか漠然とした不安に襲われ、人が恋しくなったりもするだろう。
かつて、自分の妻だった人も、風邪の時には麻生が傍にいるだけで、安寧の表情を見せた。仕事、仕事と追われる生活で、彼女にどれだけのことをしてやれたのか。思えば、家事を代わりにこなすより、もっと大事なことがあったのかもしれない。
もっとも、それも過去の話だ。
練が愛しい。どれほどの過去を背負っていても、やはり、練以上に麻生を掻き乱していく存在はこの世にいなかった。
なにが起きて怒り、呆れ、失意に捕われ、どれだけ離れようと思っても、結論はいつも同じ。結局は、彼だけ、なのだ。
「こうしててよ、龍太郎」
その言葉には、逆らえない。
今、懐く練を振りきってここを出たならば、タクシーを拾わなくても済むだろう。駆け足で駅に向かい、電車に乗ったなら、指定の時間にまだ間に合う。本日の飯代は予算通りに収まるわけだ。
しかし、すっかり麻生の心は練の方へと折れ、もはや公共交通機関を使う気は綺麗になくなってしまっていた。
――ならば逆に、飯代を節約すれば済む話じゃないか? ぎりぎりまで、練をこうして甘やかしていること以上に大切なことなど、麻生には何もないと思えるのだ。
思わず苦笑が零れた。
全くもって甘い男だと、自覚する麻生である。
しかし、練を離すことは、もうできそうになかった。
「お前も寝不足だろ? 俺がいるうちにもう少し眠れよ。お前に足らないのは、なにより休養だ」
「眠れないんだ、……しょうがないでしょ。あんたが魔法でも、かけてくれんの?」
練の一言に、笑いが口をつく。
とても魔法をかけるなんて無理だが、安らかな眠りを祈ってやることくらいはできるだろう。
「そうだな、ぐっすり寝られるように」
麻生は練を引き上げるように抱きかかえると、けして肉感的にはならないようにその口唇に軽いキスを落とした。
それから、ベッドの上へと仰向きに寝かせ、瞼を優しく手の平で覆う。
「ゆっくり休んだらいいよ」
手の下に、長い睫毛の感触。
数回手の平をくすぐったそれは、瞼とともに、おとなしく閉じていった。
麻生は練の呼吸が深くなるのを待ちながら、腕の外側を、柔らかな拍子をもって叩く。
身体は眠りを欲していたのだろう。まもなく、練からは規則的な寝息が聞こえるようになった。
落ちかけたシーツを練の上にかけなおすと、少し、後ろ髪を引かれる思いで、麻生は立ち上がる。
切り替えねばならない。いくら名残惜しくとも、だ。
タクシー会社に電話を入れ、引き出しから風邪薬を、台所の棚からレトルトパックを取り出す。
鍋を用意し、茶碗やコップを一通り盆の上に並べ、あとは粥を温めるだけの状態にして、腕時計を見た。
時間だ。
シャツがよれていないことを確認してから扉を静かに開け、到着したであろうタクシーへと向かう。
多分、帰る頃には、練の姿はないだろう。
そう思うと、ちゃんと薬は飲んでいくだろうかと今更ながらに心配になってきて、階段を下りながら、麻生は再び苦笑を零す。
なんとも甲斐甲斐しいではないか。十分に大人の、ましてや男の恋人への世話焼きとは。
練と関わってからこっち、予想もつかなかった行動を、自分がとっていることに気付かされてばかりだ。
そしてまた、調子を狂わされる自分が嫌いではないからこそ、麻生としてもおかしく思うのであった。
***
甘い……(苦笑)
普段は忙しくてやらないだけで、実は家事を完璧にこなせる龍太郎。
本当に、完璧な亭主です……。
2008.8
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