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■雨の温度
雨の日って、好きです。
お出かけするならがっかりですけれど、苦笑。
***
雨の音は強く、世界とこの部屋を分けているようだ。
耳に届くのは規則的な雨音だけ。街の喧騒が今日は遠く、あまりに静かな昼だった。
今日はもう、依頼者は訪れないかもしれない。麻生は事務机の上に雑務を抱えたまま、ブラインドが開けられた窓から薄暗い外を見やった。
急いでやることもないかと、固まった身体を伸ばすように腕を上げ、椅子から立ちあがる。気付けば、二時間も書類に向きあっていたらしい。肩を回せば、心地いい痛みが走った。
「なまってるなぁ…」
久しぶりに竹刀を握りに行かなければ、そんなことがぼんやりと頭に浮かぶ。身体を動かすことが、元来好きな麻生だ。こう、机にかじりつくばかりじゃ、身体が悲鳴を上げる。
年々減少する体力を維持するためにも、定期的に通う必要があるんだろう。
雨のせいか、部屋に満ちる空気が重い。
深呼吸をしたところで、湿った空気が肺の中に纏わりつくような不快感しか得られなかった。
麻生は若干冷えすぎた部屋に気付き、設定温度を上げると同時に、運転を冷房からドライへと切り替える。湿度が高さが、この息苦しさに繋がっているのかもしれない。
ひと休憩入れるつもりで煙草に火をつけ、来客用のソファーに座れば、窓の外がよく見える。
相変わらず聴こえるのは、雨の落ちる音ばかりだ。麻生は身体から力を抜いて、ゆっくりと目を伏せて耳を澄ました。
雨の日は嫌いではない。
外界と自分を隔離するように冷たく、しかしまた、静かさは一定のリズムを持って、精神を包み癒していく。
目を瞑れば、雨音が体内に染みるような感覚に陥った。
大分、疲れているのかもしれないと思う。空の色や、空模様、そんなものに目が行く時は、決まって心が疲弊している時だ。
自然を愛でるなんて、歳をとった証だろうかと嘲笑が漏れるが、人間とはそんなものなのだろう。やはり最後は原点回帰なのだ。
森羅万象とは、切っても切れない関係である。
柄にもないことをつらつらと考えて、気付けば煙草は短く灰に消えていた。灰皿に火を押し当て、麻生は苦笑する。
依頼者は来ない。
このままでは、うっかり、居眠りをしてしまいそうだ。
じっとしているばかりでは、いつも通りの空調では少し寒い。リモコンで設定を二度上げた室内は、今の肌にはちょうどよかった。湿度も次第に下がっている。
――眠ってしまうのはさすがにまずい。
思考の片隅で忠告する声が上がっても、意識は一人でに沈んでいこうとしていた。
瞼のあたりがずっしりと重く、雨音はさながら小守唄と化し、眠りの入口へと誘う。
必死に開かせる瞼は、数秒開けているのがやっとという始末だ。
特別忙しかったわけでもないし、寝不足というわけでもないのに、原因はやはり、この優しい雨のせいだろう。
――だめだ、落ちる。
抗いがたい濃い眠気を跳ね返すことができず、麻生は急速に意識を手放す。
次に目を開けたのは、事務所の扉を叩く、不規則な騒音のせいだった。
「お前、ずぶ濡れじゃないか……!」
「いいから、早く入れてよ」
――やばい、すっかり眠ってしまった! 扉を叩く音に勢い目を覚まし、麻生は衣服を整え立ち上がった。今参ります、そう返事をして気付いたのだが、無遠慮にがんがんと、まるで殴るように鳴り続けるドアに、麻生は外に立っているのが依頼人ではないことを悟る。
扉を開けてみれば、全身から水を滴らせ、突っ立っている練の姿があった。
「どうしたんだよ、一体」
「傘、なかったの」
「買えよ、傘くらい」
歩くたび、床を水で濡らしていく練に、麻生は大きな白いタオルを手渡す。長い睫毛からも落ちる雨粒を拭き取る練の後ろに回って、もう一枚出したタオルで、髪を乱雑に拭いてやった。
「とりあえず、服は脱げ。俺のシャツ、貸してやるから」
脱がせたシャツやジーンズは洗濯かごへ。新しいシャツを取り出すと、裸になった練に渡して、居住スペースに通した。
触れた肌は、真夏だというのに随分と冷えている。麻生はもう一度、空調の温度を上げ、扉に鍵をかけた。
そういえば、鍵は開いていたはずなのに、無断で入ってこなかった練だ。濡れていたから遠慮したのだろうか。
麻生には少し、そんな練がおかしかった。
「……寒い」
「早くシャツを着ろ。エアコンも消してやるから」
「いいよ消さなくて。こんなボロいとこ、すぐカビ生えちゃうよ。俺は、あんたがあっためてくれればいい」
タオルだけを肩に羽織り、小さく身震いした練は、麻生に向かって手を伸ばす。麻生は動揺しそうになる内心を押し隠して、何でもないことのように溜息をひとつついた。
「一応な、今は業務時間なんだ」
「セックスしようって言ってんじゃないんだから、いいじゃんそれくらい。それに、こんな雨じゃクライアントなんて来ないよ、どうせ」
あえて突っこんだりはしなかったが、引っかかりを感じなくはない、最後の一言だ。
「なあ、いいだろ? 何にもしないから」
仕事中だというのが大前提で、元よりそんな気はない麻生だが、練はといえばベッドの上で眩しいまでの裸体をさらしている。昼間からその姿を直視しろというのは、少しつらいものがあった。ましてや、触れろと言われたならば余計である。仕事モードの頭など、一瞬で消えてしまうに違いない。
既に、その状態が近いからこそ、これ以上引きずられるわけにはいかなかった。
とはいえ、誘惑を退けるというのも難儀なことだ。
「ねえ、寒いよ龍太郎」
上目使いにねだられれば、脆くも崩されていくなんとも軟弱な意思。
結局は練の言うがままベッドに上がると、タオルごと冷えた身体を正面から抱きしめていた。
風呂でもあれば、すぐにでも温めてやれるのだが、それがないからには、こうして抱いてやるのが最良の方法だろう。
「冷え切ってるじゃないか、お前。一体どこから歩いて来たんだ」
思ったよりもずっと体温を失っている身体を胸のうちに感じ、風邪をひかないだろうか、少し心配になった。柔らかな髪も、いまだ濡れたままだ。
「熱いコーヒーでも淹れてやろうか? その間に髪、乾かした方がいい。風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ、そんなに弱くない」
胸に顔を押し付けているからか、その声はひどくくぐもっている。しかし、声の調子自体は明るい。
びしょ濡れになって何が楽しいのか、麻生にはよく分からないのだが、練は嬉しそうに額を胸にすり寄せていた。
「あったかいね、龍太郎」
「お前が冷えてるんだ」
平和そのものの練の言葉には、思わず顔が緩む。
いつの間にか、今が仕事中だということも忘れ、練の背中をタオル越しに撫でている麻生だ。濡れた髪は、胸元のシャツを湿らせていくが、腕を離したいとは思わなかった。
ありがたいことなのだが、今依頼人にベルを鳴らされたなら、この蒸し暑い夏に、ジャケットを羽織った姿で依頼の対応をしなければならないだろう。清潔第一の探偵稼業、胸元を濡らしたままでは、とても応対はできない。
「それで、どうして雨の中?」
「雨とか、関係ないよ。あんたんとこ行こうって、朝から思ってた。ひと仕事終わったら雨降り出してたんだ。傘なかったけど、まあいいやって。ちょっと歩きたい気分だったし」
「でも風邪ひいたら困るだろ。考えろよ」
「ひいたらひいたで、あんたに看病してもらうつもりだから。それはそれで役得じゃん?」
「何が役得だよ、つらい思いするのはお前だろ」
「いいの。あんたが面倒見てくれんなら苦しくたって、幸せだよ」
なんて男冥利に尽きる言葉だろうか。いちいち歯の浮くような物言いをするな、と咎める一方で、たまらなく喜んでいる自分がいる。
あけすけに物を言うことができない人間にとって、練という存在は、いつもこうして理解の範疇を越えていく。
だが、それがいいのかもしれない。自分にはないものを、彼は持っている。
麻生は熱を与えながら、腕の中の存在を心底愛おしいと感じていた。
「俺、雨って好きだ。あんたは?」
「好きだよ」
迷いもなく、釣られて素直に答えれば、練が笑う。気がつけば、少しだけ、練の体温は上がっているようだった。
雨はなおも降り続く。
天気予報が正しいならば、明日の朝までは止まないのだろう。
世界とこの部屋を分けたまま、二人を包みこむ水の旋律は、途切れることがない。
依頼人も依頼の電話も、今日はもうなければいいと、不謹慎なことを考え始める麻生は、回した腕に力をこめた。
二人の体温が溶けあっていく。
この東京に在っても、恵みの雨は、はみ出し者にすら優しいようだ。
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2008.8
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