■とどまることのない君に

  そろそろ龍太郎強化月間(龍太郎をかっこよく書こう月間)を実施したいと思いつつ、
  全然活躍してくれないので、誰か龍太郎をかっこよく書けるコツを伝授して下さい……(笑)
  今回も大概適当なこと言わせてますので、申し訳ないです!

  ***

洗面台の前に立つと、寝起きで冴えない麻生の顔が鏡に映し出された。
完全に寝不足だ。それもそのはず、睡眠時間はたったの二時間だけ。眠る直前まで飲んでいた酒も、歳のせいか身体に響いている気がする。
妙に喉が渇いているのは仕方ないとしても、頭が重いのは、明らかに二日酔いの症状だろう。もちろん、認めたくはないが。
手にした歯ブラシに、そろそろ替え時かもしれないと、鈍重な頭を抱えたままボサボサになった毛先を見つめた。
「龍太郎」
鏡の前に立つ麻生に向かって遠くから届くのは、練が呼ぶ声だ。大きな声が頭に響くように感じられたが、そこはあえて気付かない振りをすることに決める。
麻生は歯磨き粉を付けた歯ブラシを口に咥え、後ろを振り返った。
「なんら」
何だと、歯磨き粉が零れないように応えるくぐもった声だったが、ベッドの上にいる練まで届いたらしい、
「シャツ貸してくんない? 昨日の、着れそうにないから」
用件が返ってくる。
確かに、昨晩はシャツも着たままに眠ってしまったから、とてもそのまま外出することはできないであろう、くっきりとした皺がついていた。
「ああ」
衣装ラックから出して使えと、不自由な口調で麻生は伝える。
練には少しだけサイズの大きいシャツではあるが、ジャケットを羽織ってしまえば、帰る間くらいは気にならないだろう。自宅なり会社になりに戻れば、自分が着るシャツなど腐るほど置いてあるはずだ。
磨き終わって泡だらけの口をすすぎ、冷水で顔を洗う。冷たさで急速に収縮する肌からの刺激に、だらけた身体がほんの少し引き締まる思いである。
幾分しゃっきりした顔で居住スペースに戻ると、練は着替えの最中だった。
「お前、何時に出るんだ」
「八時には出る」
「八時って……過ぎてるじゃないか」
「うん。出るつもり、だった」
時計の針は練が言った時間より十分は先に進んでいた。焦った様子もなくシャツを替えている練に、麻生は脱力してその姿を見つめる。どこか、感覚が違うことは分かっているつもりではいるが、練の日常を知ると一般人との様々な相違点を見つけてしまうわけだ。
「朝飯は?」
「いらない。時間ないでしょ」
時間が過ぎているという、自覚はあるらしい。かといって、急ぐ、というわけではない。
「コーヒーも?」
「うん、いいや」
ネクタイを締め、背筋を正して立つ姿は、昨晩の練とは別人のように見える。持ち主に許可を求めることもなく、無断で麻生の整髪剤を髪に撫で付けると、印象は更にがらりと変わった。
昼の顔、夜の顔、他人に見せる顔、麻生にだけ見せる顔、そのどれもが違う印象を与える彼に、麻生は往々にして戸惑う。
「歯ブラシ、買って来てやろうか。朝、いつもばたばたするだろ」
洗面台の鏡に向かって髪型を整えている練に、麻生が問うた。
どうせ、自分のものもそろそろ寿命だ。練の分を買うにしても、手間がかからなくていい。
服は貸してやれても、歯ブラシまでは気分的に貸してやれないから、一本くらい、一緒においてやってもいいだろう。
しかし、後ろに立つ麻生に鏡ごしに視線を送った練の表情は、どこか曇っているように見てとれた。
「いらないよ、そんなん」
「あって不便ってことはないだろう?」
「歯なんかどこでだって磨けるよ」
ラックから出したタオルで洗った手を拭くと、若干水分を含んだタオルを、麻生に向かって放る。
「おい……っ、投げるな」
「いらないから。買って来なくていいよ」
「練?」
練の声のトーンが、下がっていた。
地雷を踏んだらしいことは分かったけれど、どの発言が練の調子を変えたかは分からない。いや、発言と言えば歯ブラシの話題を振ったに過ぎないからこそ、への字に曲がっている練の口唇を見て、麻生は頭を捻った。
その間にすっかり身支度を終えた練は、テーブルの上に置きっ放しだった携帯をスラックスのポケットへと突っ込み、事務所の扉を開けようしている。
「練っ」
「……なに?」
「別に、なにってことはないが」
引き止めてから、それに対する言葉がないことに気付き、麻生の声が途切れる。
どうしたのだと、尋ねるのも躊躇われて、何を言ったらいいのかが分からない。
その様子に気付いているのだろう。練は麻生の顔を見つめ、仕方なさそうに息を吐く。
「龍太郎」
練の手が麻生の襟ぐりを掴んで寄せると、ぐっと近付いた顔でキスを奪った。
奪われるのも突然なら、終わるのも突然な、一瞬の強引な口付けだ。
「時間なくても、これは貰っとくよ」
既に背中を見せて扉を開けている練からの去り際の文句は、強烈に麻生の耳に残った。 なんなんだあいつは、と、最後まで頭を抱えたまま、結局何が練の機嫌を損ねたのかは分からず仕舞いである。


その日、買い物に出かけて切らした日用品を買い込む途中、歯ブラシを手にした麻生は、ぼんやりと朝の練を思い出していた。
買うべきではないんだろう、もう一本のことを思い、練が不機嫌になった理由に考えを巡らす。
不機嫌になる練など珍しくもなんともないのだが、どうも、今朝の様子が引っかかっている。
いつだったか、練の吸う煙草を事務所にもストックしておけと、言われたことがあった。タンブラーで酒を飲んでいた練を見て、ロックグラスを買って来たこともあった。自分専用のグラスに、あの日の彼は機嫌良さそうにブランデーを注いでいたのだ。
自分用に青色の歯ブラシを持つのとは逆の手で、ピンク色した歯ブラシを手に取る。
グラスはよくて、これは駄目なのだろうか。
それとも、今日は元より機嫌が悪くて、麻生のお節介に腹が立ったのだろうか。
考えても、納得のいく答えは出せずに、ピンクの方は棚へと返し、麻生はレジへと向かう。

会計を済ませてから冷静になったのだが、買うにしても、ピンク色はないだろうと後から自分の行動に笑いが零れた。

麻生が練の心境に気付くのは、この後、数日経ってからのことである。
あの朝の記憶も薄れた頃、きっかけは唐突にやって来た。


+++


「いい妻で、あろうとしたんです」
ぽつぽつと、女性が話し出した言葉に、麻生は頷きながら続きを促す。
この日事務所を訪れた女性は、応接セットの向こう側のソファに座り、つらそうな表情を麻生に見せていた。
「しかし最近、どうして私だけが我慢をしているのか、分からなくなって来たんです」
よくある浮気調査の依頼ではあったが、本人にしたら一大事である。
まだ可愛らしさを残した顔の大きな目を伏せ、彼女が全ての事情を話すのを根気よく訊いていく。
女性が結婚したのは、一年ほど前のことだと言う。
留学経験もある夫は有名大学を卒業後、一流企業へと就職した。語学に堪能な彼は、グローバル化される企業経営の中で着実にその地位を上げているそうだ。
二人の出会いは大学時代だったそうだが、自由奔放な彼女に惹かれ、長い交際を経てプロポーズをしたのは彼の方だった。もちろん彼女も、いつ彼の元へ戻っても優しく出迎えてくれるその姿に、強い愛情を持っていたという。彼のいる場所が、自分が生きる場所になるなら、こんなに幸せな生活はないだろうと、そう思ったそうだ。
そして、彼と二人きりの新居へと生活の場を移した。一人暮らしもしたことがなかったという彼女は、慣れない家事に戸惑いつつの結婚生活である。
それでもはじめはそれを幸せだと思った。一人の男性に尽くすということの新鮮さに、彼女は満足していた――そう、思っていた。
「私はあんなにも長く一緒にいたのに、知らなかったんです。彼もまた、私のように自由を求める人だった。彼を縛らない私は、彼にとっての理想だったのよ。そして私は、彼の向ける優しさだけを欲したに過ぎなかった。
だから、彼が定時に帰らなくても、休みに出かけていっても、それは昔の私のように、ひとつの場所に縛られることが耐えられない人なんだと、そう理解したんです。でも、それに比べて私は、あの人の妻になって、色んなものがなくなってしまったの。大学時代は毎晩のように街へ繰り出して一晩中遊んだ友人も、会社帰りにお買い物を一緒にした同僚も、通ったお店も、何もかもが今の私からは遠い。彼の元に飛んでやって来たのに、家の中に入った私は、いつからか自由に飛べない鳥になっていたんです」
すらすらと喋り出した彼女に、麻生は肩の力を抜く。
この男になら事情を話しても大丈夫だと、彼女に安心が生まれたんだろう。
あとは話をよく聞き、適切な調査を提案するだけだ。
「彼が、女と会っていると気付いたのは、結婚して三ヶ月が経った頃です。頻繁に、彼が女性と電話で話しているのをに気付いたの。同僚かもしれない、昔からの知り合いかもしれない。けれど、気になって仕方なくなってしまった。慣れない家事に疲れ切って、毎日同じことの繰り返し。……私も外へ、昔のように出かけていけばいいとは分かっていても、いつからか、羽がちぎれてしまったように身体が重いの。一人、うちの中で、日がな一日彼のことを不信に思っている今に、耐えられなくなったわ」
女性の指がぐっと眉の上を押さえている。
眉間にぐっと寄った皺に、愛らしい顔には不釣合いな苦渋が浮かんでいた。
長い間、彼女も悩んだことだろう。よくある話だと、一蹴はできない。
すっかり冷めてしまったであろう緑茶に手を伸ばして一口飲み下すと、ようやく一息ついたのか、彼女の上がった顔と視線が合った。
「調べて、いただけます? 女性と会っているのが事実でも、構わないんです。確証がいただけるならば、私の気持ちがすっきりします。それからじゃなきゃ、私、動けないんです」
「もちろん、お請けいたします」
「……ありがとうございます。その後のことは、彼と一度話をしてから決めたいの」
ようやく見せた、はにかむような笑み。
彼女の顔には、笑顔がとても似合っていると思える。自由な羽を持っていたという言葉は、けして嘘ではないと、伝わってくるようだ。
「ただ、このまま彼の行動に知らぬ顔をして、私だけが所帯じみて老けていくのは耐えられないと思ったから。よろしく、お願いします」
その言葉を聞いた瞬間、麻生の胸がぎくりと大きくなった。
所帯じみて、という彼女の単語が頭の中に響く。
何か、ずっと引っかかっていった答えが、その言葉にあった。
そう、練のあの不可解だった行動の答えが、みつかった気がしたのだ。
「それでは、調査方法についてなのですが――」
慣れた手順で説明していく麻生は彼女を目の前にして、その実、頭の中では練のことを考えていた。
歯ブラシをいらないと言う練。
通い猫のように、けして居着かない練。
あの日感じた違和感の理由は解け、そして自分が言った発言の軽率さを知る。
彼は、慣れていないのだ。
十年前のあの日から、平穏な日々とは練から遠いものだった。
韮崎と出会ってからの日々もまた、平穏という言葉からはかけ離れていたことだろう。想像に過ぎないけれど、韮崎という男と酒を酌み交わすことはあっても、歯ブラシの話をしたとは思えない。
彼から受ける暴力、育っていった歪んだ愛情、そして沈んだ闇の世界。
少なくとも、麻生のような庶民候な人間の生きる世界とは別の場所で、練は生きて来たのだ。
それを、分かっていると言葉では言っていても、実際に理解してやったことなど、本当はなかったかもしれない。彼が戸惑うわけを知っているつもりになって、こうして麻生は練の生き方を否定していく。
日常の、ふとした瞬間に、練を傷付けていく。

ボールペンを持つ手に、力が入った。
ぶれそうになる文字を書きながら、様々なことが麻生の脳内を巡っていく。
『あんたは知らないうちに、他人を傷付けてるんだ』
いつか、練が放った言葉の本質が、少しだけ見えるようだ。そうかもしれないと頷いた麻生に苦笑した練は、一体何を思っただろうか。

女性が記入し受け取った申込書を確認しながら、麻生は無性に練に会いたくなった。


+++


「今日はどうゆう風の吹きまわしなわけ?」
「嫌な言い方だな。自分の煙草を買うついでだったんだ」
「ふーん……」
「……なんだよその疑いの目は」
最後の一本を出し、ダンヒルの外箱をくしゃりと崩した練に、麻生は新品の箱を差し出した。言ったように、麻生がハイライトのついでに一緒に購入したものだ。
「いやさ、なんか魂胆でもあるんじゃないかって思うじゃない? 普段やらないことされるとさ」
「失礼な奴だな」
「あんたが普段から冷たい男だから疑われんだよ、ご愁傷サマ」
なんという皮肉だ。しかし、言葉は辛辣なもののそこぶる機嫌がいいらしい練は、麻生から受け取ったダンヒルのビニール包装をはがす。口笛でも吹かんばかりのその様子に、麻生は思わず笑んだ。
あの朝から一週間が経ったが、練はあの日のことなど忘れているように振る舞っていた。本当に忘れているのか、覚えていても触れないだけなのか、それは分からない。
それ以前に、よくある些細な出来事だ。元より、練が一週間も引きずること自体がありえないだろう。

昨晩遅く、鍵を開けて事務所に帰ると、そこには練の姿があった。堂々とベッドに寝転がり、人のうちの酒を飲んでいるのだから、文句もそこそこ、いっそ感心してしまうほどである。
いつものように爛れた夜を過ごし、今朝は練が先に目を覚ました。
今日もまた、練を見送るのは麻生の方だが、支度を整える練に構うことはない。
昨夜はシャツを脱いでからベッドに上がったし、練も寝坊したわけでもない。構うことがなかったと言うのが、正しいだろうか。
麻生は広げた朝刊に目を通しながら、切り抜くべき記事の物色を続けていた。
「あんた、今夜いる?」
洗面台の方から戻って来た練に尋ねられ、新聞に落としていた顔を上げる。しっかりと髪型を整えた、昼の姿へと変わっている練だ。
「いるよ。出歩く予定は今のところないから。来るのか?」
「時間があればね。俺にもお付き合いがあるからさ」
お付き合い、の部分を意味深に言うから、麻生からは小さく息が漏れた。
今夜は誰と会うのか、どこの会合なのか。
日に日に裏社会へと沈んでいく練には、麻生もどう答えていいかがわからない。足を洗えと、もう何度彼に説得したことか。
練の言う世界での義理など、麻生にはとんと理解ができないことだった。
「あんまふらふら飲み歩かず、早く帰って来いよ」
「なにそれ。まるで、ここが俺のうちみたいな言い方だね」
ここもまた、俺たちのうちだろう?――と、告げたかった言葉は故意に飲み込んだ。
それを言葉で告げてしまえば、練が戻って来なくなりそうで怖い。
何も言わない麻生を怪訝な顔で眺める練に対し、否定とも肯定とも取れないであろう、肩をすくめるポーズで会話をやり過ごす。
ますます練の方はわけが分からないらしく、
「ねえ、今日のあんたってちょっと変だよ」
素直に感想を述べた。
「変じゃないさ」
そう言った麻生に、練はいぶかしんだ顔をありありと見せつけてくれたが、すぐに笑顔に戻ると扉を開けて出て行く。
いつの間にか、支度はすっかり終わっていたようだ。
今日もまた、別れの言葉は一切ない。麻生の口からは、そんな練に笑いが漏れた。


事務所の窓から外を見下ろし、練の背中を見送る。金色の朝の陽射しを浴びた髪が、きらきらと輝いていた。
夜が来れば、練は再びここへと戻って来るだろう。
それを出迎えてやろうと思う。
特別なことはしなくてもいい。多分、麻生の身体ひとつがあるのなら、それが一番なんだろう。
見えなくなった背中に、麻生も業務の準備を始めることにした。



  ***

  この文を書いてる間、頭の中にはずっと『ひとりぼっちの・ハブラシ』が流れていた…(懐)
  歌詞とはリンクしてないのに、歯ブラシって部分だけで脳内再生がかかったようです(笑)
  あの歌詞のように龍太郎と練がなったら、一ヶ月くらい泣いて過ごす!!(笑)
  お粗末様でしたっっ  2010.1