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■35:パセリ
幸せそうな及川さんを書きたい!と、書き始めたのですが、どうもギャグになる傾向があるようです……。
仕事のことや、時期のことなど、もろもろスルーする方向で、今回も!(逃っ)
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「あんたといるのが一番落ち着くよ」
日も差し込まない、小さな白熱灯だけが二人の姿を照らす寒い廊下。背中を冷たい壁に預け、隣に立つ龍太郎が及川に向けてさらりと言う。
それは先ほど、思ったより美味しいなと、新商品の缶コーヒーを褒めた調子と何ら変わりがない。
及川は持っていた、龍太郎とは種類の違う缶コーヒーを思わず落としそうになって、ぐっと手の平に力を入れた。
隙間風が身に凍みる、崩れかけの雑居ビルの中。仮にも今は張り込み中だ。息をひそめた静かな廊下で、中身の入ったコーヒー缶など落とせるはずもない。
少々離れているとはいえ、派手な音が響けば、一発でドアの内側にいる人間に侵入者の存在を明かしてしまうだろう。
なにもこんなタイミングで言う台詞ではないだろうと、及川はいつもより幾分早くなった鼓動で文句を吐く。
無論、声にも顔にも出したりはしないから、心の中で、である。
「お前は最近出来た部下にも慕われて、うまくやってんだろう」
そうして動揺などおくびにも出さず、順調そうに見える龍太郎の仕事っぷりに皮肉めいた言葉を送った。
「それはそれだ。うまく行ってるからって、気を張り詰めてるのには変わらない」
「贅沢言うな」
半笑いで吐き捨ててから、大分ぬるくなったコーヒーを口に含む。
飲み下したことで少しだけ気分も落ち着いて、冷静になった普段通りの頭で、龍太郎に小声で叱責した。
「まだ不満言えるほど偉くはねぇだろう」
「不満なわけじゃないよ。ただ、こうしてあんたといると、あんたといるのは楽でいいな、ってね」
屈託なく龍太郎が笑むのが、及川の横目に見て取れる。
知り合って何年が経ったのか。
互いに一人でいることを好む性格ゆえか、二人の間の距離感はつかず離れず、一番心地いいと思える自然な位置を、感覚で理解していた。
気を遣わなくても、言葉にしなくてもよい距離は、それ以上の心の安定をもたらす。
「楽ってなんだ。仕事にそんなもん求めてんじゃねえよ」
好みよりはずっと甘ったるいコーヒーをもう一口飲み下し、及川はぶっきらぼうに言った。
どこまでもタイミングの悪い男だと思う。空気が読めないと言うのか。
例えばこれが、仕事帰りのバーカウンターだったならどうだろう。きっと、ずっと龍太郎の言葉を噛み締められていたに違いない。
どう考えても、仕事中に吐く台詞ではなかったはずだ。
そのあたりが、龍太郎らしいといえばそれまでだとはいえ、及川からは苦笑が零れた。
糖分カットと書かれているのにも関わらず、舌に甘すぎるコーヒーを飲み干す。ぬるくなったそれは身体を温めることはなかったが、もう充分に及川の身体には熱が戻っていた。
こんなに甘いなら龍太郎と同じものを選べばよかったと、故意に浮足立つ思考を別の考えへと変えながら、上がった熱には気付かない振りを決める。
「お……ようやく奴さんのお出ましだ」
死角になっている壁越しに廊下の先を眺めると、マークした男が暴力団事務所の扉を開けていた。
明るい茶髪、背が高く細身の青年。追っていた人物に間違いない。龍太郎の鋭い眼光と、素早く視線を交わす。
ここまで来ると、今回のヤマも終わりが見えたようだ。
「ホシ、確認」
無線に向かって小声のまま伝えると、耳には待機する仲間からの合図が届いた。
切り替わった及川の頭では、逮捕までの流れが瞬時に描かれていく。その後に待っている、面倒極まりない書類作りまでの全ての過程が、整然と頭の中に浮かぶ。
そこまで終えて、ようやくひとつの事件が片付くのだが、休む間もなく次の事件が降りかかることだろう。
なんたってここは、眠らない街、東京である。
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「お疲れ様でした」
「ああ」
控えめなBGMが心地いい、照明の抑えられた店内で、及川は部下からの酌を受ける。
居酒屋とはいえ、がちゃがちゃとうるさい大衆的な店ではない。パーテーションで仕切られた席は、隣の客の顔を見なくても済む、非常に落ち着く造りになっていた。
が、しかし、同じテーブルを囲んで座る数人がむさくるしい四課の面々なのだから、気分もそれだけ沈むというものだ。
「さすが、及川さんの活躍のおかげで、今回は早く片つきましたね」
「褒めたって何も出ねえぞ」
「んなこと期待してないっすよ」
からりと笑う部下に、及川はビールの瓶を傾け、空になったグラスへとビールを注ぐ。
「及川さん、あんまり食わないんすね?」
「俺のことはいいから、お前ら食っとけ」
あまり食欲がない本日の及川を尻目に、部下たちは威勢よく注文した料理の数々を、次々に平らげていく。元気のいいことだと、及川はその様子を生暖かく見つめることにした。
体力勝負の刑事業、酒も飯も、そしてストレスがら煙草も、消費する量と言ったら半端ではない。若いなら尚更だ。
あっという間に胃の中に料理を収めていく彼らの様子に、及川からは苦笑が漏れる。
勘定伝票の数字は恐ろしくもあるが、これで明日も四方へ走らせられるなら、喜ばしいことだ。
そんなことを考えながら、空にしたグラスを部下へと差し出し、黄金色したビールを求めた。食は進まなくともアルコールならいくらでも進む。
身体に悪いはずだ。
とはいえ、分かっていても止められない。もう今更だと思う及川である。
「に……が……っ」
なみなみに注がれたグラスに口をつけ、冷たいビールを味わおうとすると、隣から妙に潰れた声が聴こえた。
くぅ、と、小さく呻く声が気になって、グラスを口唇から離して横の男を見やれば、彼は浅黒く濃い顔を盛大に歪ませている。
どうやら、揚げ物の付け合わせとしてレタスと共に添えられていたパセリを噛み潰したらしい。片手には深い緑色をした茎の部分だけが残されていた。
彩りのように添えられたそのパセリを食べる者は、この面々の中でただ一人らしく、他の部下たちは一様に苦い顔を見せる男を揶揄する。
「お前、またそんなもん食って。そりゃ食わなくてもいいんだ」
「馬鹿、この苦さと香りがたまんないんだ」
「なんだそりゃ」
「お前らには分かんねえよ……っ」
くだらない部下たちのやりとりを眺めつつ、及川は目の前で顔を歪ませる男と、まったく同じ行動を取るもう一人の男の顔を思い浮かべる。
ジンに添えられたライムを、よせばいいのに、泣いてまで口に入れる、なんとも馬鹿な奴。今日は久しぶりに現場を共にした、麻生龍太郎のことである。
龍太郎のその行動に突っ込みを入れたことはない及川だが、もしも指摘したならば、この不細工な顔をさらす部下のように話すのだろうか――分かっていても、齧らずにはいられないのだと。
想像してみて、あいつも言いそうだと、及川は妙な確信をする。
「――ほら、及川さんも笑ってるじゃねぇか」
「俺のせいっすか?」
部下に言われてはじめて、及川は自分の顔が緩んでいることに気付いた。
「そういえば、今日は機嫌いいっすね、及川さん」
「お前っ、失礼なこと言ってんじゃねえよ」
「す、すいません……っ、別にいつもは怖いとか、そういうことじゃないんすけど……いてっ!」
必死にフォローをする一人の頭を横から軽く叩きながら、脳裏には龍太郎の顔があった。そして、昼間に言われた場違いな告白を思い出す。
「痛いっすよ……っ」
「大袈裟だ。軽くしか殴ってねえだろ」
「及川さんの言う軽く、なんて、全然軽くないですから!」
こんな連中とではなく、今夜龍太郎といつもの店に行けていたなら、あの続きを聴けただろうか。
馬鹿で可愛い部下たちを相手に、及川は詮ないことを思い描く。
少しはいいムードになったろうか、と考えたものの、すぐにそれは打ち消した。二人きりになったとしても、龍太郎のことだ。あの発言をしたことすら忘れているに違いない。
「やっぱり、機嫌良さそうですね」
「なんだ、俺が機嫌良くちゃだめなのかよ」
「いいえ!いいです、その方が断然……!」
またもカンに障るフォローを入れた別の男にも、軽い拳を頭の横に入れてやる。
「馬鹿野郎、てめえらは一言余計なんだ」
言葉とは裏腹、酒に酔ったわけでもないのに、気分がよくなっていた。
あの続きはなくたって構わない。ただ、無性に龍太郎と飲みに行きたい気持ちになった。
明日職場で会ったなら、誘ってやろうと思う。互いに多忙な独り身、仕事以外の予定などは、めったに入ったりはしない。
ジンとライムをカウンターに乗せ、今夜よりも静かで、今夜より落ち着く時間が、いつもの店には待っているはずだ。
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2008.11
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