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■22:プロフェッショナル
色々と、練はプロフェッショナル!
今回は(今回も?)、龍太郎氏に、練の罠にはまっていただきました(笑)
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「なんだよ、ドタキャンって」
店内の控えめなBGMに負けるほどに小さく、呟いた麻生の言葉は空気に消えていく。
しかし、マスターには聞こえていたようだ。グラスを拭く手は止めないままに、失笑したのが見てとれた。
「笑わないでよ、マスター」
麻生が飲んでいるのは、行きつけのバーである。定位置であるカウンターの端に座り、いつもの酒を頼む。
すっかり初老の彼とも顔なじみだ。
とはいえ、笑われたことなど記憶にはなく、恥ずかしいような、居たたまれないような感覚に襲われる麻生だった。
練から予定を空けろと言われた今夜。
溜まった雑務を無理矢理終わらせて来たというのに、一時間待っても、二時間待っても、練は待ち合わせ場所に現れなかった。
半分以上残っていた煙草はすっかりなくなり、近くの自販機でハイライトを購入したほどだ。それも殆どが消えてしまったのだから、かなりのハイペースで煙を吸いこんでいたわけである。
電話の一本も入れればいいものをと思いながら、自分から電話はかけない。
バイブレーション設定にしてある携帯を、わざわざスラックスの中から取り出しては着信がないことに嘆息した。
いっそこちらからかけてしまえば、あんな場所で大事な時間を潰すこともなかっただろうに。
結局、練の姿を見ることはないままに、麻生は待ち合わせ場所を去った。
そして、通い慣れたバーの重い扉を開けたわけである。
ささくれ立った気分を流したくて、ダブルで頼んだウィスキーを飲み干す。次第に身体を巡り始めるアルコールだが、なかなか酔いを感じさせてはくれなかった。
気分が高ぶっているせいだろうか。
どれだけ練とは人種が違うと、もうついては行けないと思っても、頭からその姿が消えることはない。
会いたいと言われれば嬉しいと感じる自分がいるし、そう、加えて今日は久し振りだったのだ。それぞれが忙しい身としては、会いたい時に会えるというわけでもない。電話がせいぜいだ。
特に、麻生が会いたいと思った時に会えたことなんて皆無である。自分から連絡をしないのだから当たり前だとも言えるが、会うのはもっぱら練が不意打ちをかけるせいだった。
部屋に上がりこんでいたり、時には突然路地裏へと袖口を引かれたり。
それでも、練の顔を見れば、喜んでいる自分がいる。どんな状況であれ、悪い気はしないものだ。
会いたいと思っていたから、練からの誘いに殊更浮かれていた自分がいた。
だからこそ、今となっては、はしゃいでいた自分が恨めしくあるわけだが。
「マスター、お代わり頼むよ」
空になったグラスを上げると、からりと氷が音を立てる。
思いの外、回ってくれない酔いにも気分が沈むようで、こんな日は何杯飲もうとも無駄であることを分かっていた。いくら酒をやっても酔えないのだ。そして厄介なことに、気分だけは飲むほどにますます重くなる。
悪循環だと思いながらも、片手にグラス、片手に煙草を止めることは出来なかった。
あけすけに言うのならば、ようするに、練に会えなかったことがショックなのである。
「ご馳走さま。ごめんね、今日は暗い酒で」
いくら飲んでも無益とすれば、薄い財布が痛くなるだけだ。麻生はグラスの中身がなくなったのを機に、意を決して勘定を頼んだ。
「いいえ」
マスターは柔らかに笑む。多くを語ることはなく、厚情を見せるその様子に、少し救われた気分になった。
一人で飲むよりは、ここを選んで正解だったと思いながら、三杯分の代金を置き席を立つ。
――今日は何も考えずに寝ちまおう。
店を出た麻生はそう自分に言い聞かせると、ネオン明るい街を一人歩き、探偵事務所兼自宅へと足を向けた。
高々予定が少し狂っただけで、大したことじゃない。うだうだと気にしている方がおかしいのだ。心の中で言葉にしてみれば、本当にそんな気がしてくる。狭いベッドに身を預けたなら、疲れた肉体はすぐにでも眠りを求めるだろう。
と、思っていたのだが。
『龍太郎? なに、拗ねてんの?』
携帯電話の通話口から聴こえる、いつも通りの練の声に、麻生は言葉を失くす。
『こっちもさ、忙しいわけ。それに、俺だって寂しいんだよ?』
憎らしいくらいに平然と、けろっとした調子で言ってのける練。
「連絡くらいできただろう」
『無理だったからしてないんでしょ』
「どうだか」
『何だよ。トゲあんな、その言い方』
どちらかといえば、拗ねているのは練のようだった。
声がそれを麻生に伝えるようで、歩きながら携帯電話に向かって会話を続け、練の様子を伺う。声以外に音はなく、その静かさから推測するに、おそらく自宅か、または会社の中なんだろう。今まで仕事の接待があったのか、それとも人には言えない連中との会合だったのか、それが済んでようやく一人になったところか。
『俺、明日も朝から野暮用でさ、あんたに会いに行けないんだ』
「俺だって明日も早くから依頼が入ってる」
『そっか、今夜はもう無理だね。あーあ、ついてないの』
重い溜め息が聴こえた。
『ほんとなら今頃、あんたの身体の上でよがってたはずなのに』
「下品なこと言うな」
『あんたも期待してたんでしょ』
その問いに答えたりはしないが、もちろん期待していた麻生だ。待ち合わせした後、練がどこへ行こうとしていたかは知らないが、ただ食事をしてさようなら、という展開にはどう考えたってならない。
互いの肌を貪ることもなく、ただ静かに眠る夜だってあるけれど、今夜はそんな気分ではなかった。そしてそれは、練も同じだったのだろうか。
『なんか、考えてたら疼いてきちゃった』
「……練?」
『熱くなってきたの。あんた思い出して』
強烈な言葉だ。麻生の眼下には、にやりと蠱惑的に笑う練の姿が見える。
『ねえ、聴いててくれる?』
「聴くって……、おい練、ちょっと待てよ」
『待たない。もう、勃ってるから』
電話を通した練と麻生の間で、とんでもない展開が訪れようとしている。麻生は練の言った言葉の真意が分かり、慌てて通話口に向かって制止の言葉を発した。
練は自宅かどこかで一人でいるのだろうけれど、麻生にとったら問題だらけだ。こんなところでテレフォンセックスだなんて、冗談じゃない。
しかし、時既に遅し。
練による大変な嫌がらせは、麻生の意思を無視して始まってしまったらしい。
『別に、言葉責めして、とか言ってんじゃないんだからいいじゃん』
「何がいいんだ、俺は今まだ外にいるんだ」
『それが何?』
意にも介さない練の一蹴によって、麻生の顔は盛大に歪んだ。
『いいだろ、あんたがそこでするわけじゃないんだから……ん……――』
「待てって…っ」
『もう、無理だって……あ、ん……』
声のトーンに明らかなる甘さが増していく。吐息混じりになるそれが、麻生の鼓膜をダイレクトに刺激した。
ごくりと、生唾を飲みこむ自分を抑えきれない。
雑踏の中、練の声だけが鮮明に意識され、すぐ隣にあるはずの街の景色が遠くなる。切り離されていく現実空間と、回線で繋がれた別世界。
脚だけは歩きをやめなくても、思考は全て、練の元へと飛んでいた。
かすかに聴こえる衣擦れの音が、電話の向こうで行われている生々しい行為をまざまざと見せつける。
『う…っ、あ……りゅう、たろう……、気持ちいい…よ…ぉ…』
そのうちに、更なる露骨な音が漏れてくる。肌を擦り上げる摩擦音と、卑猥な水音だ。
なんていう高度な集音機能なのか。進化する電子機器の性能に、麻生は舌打ちしたくなっていた。
荒くなる練の息は、実際に耳に吹きかかっているかのような錯覚を生み出し、そこから麻生の身体をじわりじわりと犯していく。
『んっ、あっ、あ……っ』
誰に聴こえているわけでもないのに、とんでもなくやましい気分だ。公道のど真ん中にいる自分と周りの人々は遠く、本当は離れている練の存在が一番近くに感じられる、この奇妙な感覚は一体何なのか。
「……練」
あれだけアルコールを食らったはずの喉がからからに渇き、絞り出したかような声は掠れていた。
『あっ、ん……、龍太郎、……呼んで』
「練?」
『ん、そ……、呼んで、名前……っ』
耐えきれなくて呼んだ名前に反応し、練は麻生の声を求める。
快感の中で、切なげな表情を浮かべる淫猥な姿。声だけで繋がる今なのに、その映像の鮮明さときたらどうだろう。
「練」
『あんっ、あ……達って、いい…?』
いいかと問われても、どう返答すればよいのか麻生は迷う。すっかりイレギュラーな状況の中、奇異なる感覚に支配され、とても正確な判断はできそうになかった。
「……いいよ」
考えた末に発したのは、その一言だけだ。
あまりにも切なく響いた練の要求を、拒むことはできない。たとえ練が、電話越しにちょろい奴だと嘲笑っていようとも、電話を切るという判断さえも失念している。
『ん…あ、あ…っ、達く…――っ』
泣き声みたいな嬌声を惜し気もなく出し、練は絶頂へと昇りつめる。
その熱い息は麻生の全身を一瞬で駆け巡り、身体の奥の情欲を、否応なしに煽っていった。
「満足、したのか?」
『……あんまり、かな』
「なんだそれ」
予測もしなかった練の行為に、半ば呆れて麻生は笑う。同時に、本格的に火がついてしまったらしい身体を持て余していた。
元より、今夜はその予定だったのだ。
会えないと分かっていながら煽られたんじゃ、堪ったもんじゃない。
そして、尚かつ――。
『あんたも、我慢できなくなったんじゃない?』
愉しそうに笑う練は、最後の最後まで麻生を落としていくことを忘れなかった。
『でも、その気になったからって、風呂屋行ったりしないでね』
意地の悪い言葉を結びに、ぷっつりと通信は途切れる。
唖然として、しばし歩む脚が止まった。
「……あいつ、謀りやがって……っ」
切れた携帯電話を耳から離し、麻生は通話口に向かって暴言を吐く。
もはやここまでくると、回りの人の目を気にすることは少しもなかった。もっとも、この雑多な街の中で、携帯相手に文句を言う男が一人や二人いたところで、気に留めるような者はいないのだろうが。
「……ったく……」
麻生は思う。
これは初めから仕組まれていた、練の計画の一端だったのではないかと。
憶測の域ではあるが、嫌がらせは多分、あの誘いの日から始まっていたのではなかろうか。浮かれていたのも、落ちこんでいたのも、踊らされたのも、練の手のうちだったのだろうか。
妙に高ぶった性欲を持て余したまま、麻生は家路を急ぐ。
今夜の予定は全てが狂ってしまったわけだ。
このまま帰ったとしても、眠れるわけがない。
かと言って、あんな捨て台詞を聴いたからには、玄人の女性を求める気にもならない。
ちっと、舌打ちが零れる。
予定も感情も欲情も、全部を引っ掻き回していった練に、甚だ恨めしい思いに駆られる麻生であった。
***
やさぐれ龍太郎(笑)
悶々とした夜を過ごすことになりそうです。ご愁傷様!!
2008.7
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