■10:桜の木の下で

  龍太郎が辞表を出したのかどうか、警察を辞める頃を想像してみました。
  (それを捏造と言います★)
  龍練というか、龍太郎しか出てこない…!!(ひ)

  ***

春一番なのか、東京の風は強い。
春霞に覆われる空の下、陽光だけは随分と暖かくなったようだ。
しかし、この風じゃ桜はそうは持たないだろう。
俺はタクシーの後部座席から、風に舞う花を見やった。車道には、薄く桃色の花びらが、舞い落ちては積もっていく。
花弁の絨毯の上を走る、なんてなかなか情緒的だが、気分に浸っている余裕はない。今日もこれから、都民の為に仕事が待っているのだ。
公園に集まって酒をかっ食らっているサラリーマンたちを横目に、俺といえば相変わらず不定休の毎日。日がな一日、桜の下で酒でも飲んでいたいものだ、と羨ましく思うのも仕方がないだろう。
しかし、仕事に振り回される日々も、終わりまであとわずかだ。
俺は警察を、辞める。

しばらく会っていない、あいつと一緒に花見と洒落こめたならどんなに幸せなことか。
とはいえ、練はまだ被疑者の身で、俺はまだ刑事の身。そう簡単にはいかない。
それに、桜だってこの分では持って明日までだろう。
散りゆく桜が切ないだなんて、感傷もいいところだ。

胸ポケットに手を当てると、カサリ、辞表を入れた封筒が存在を主張する。
俺は今まさに、岐路に立っていた。


+++

ざっと、音を立てて、風が桜を鳴らす。
夜の桜は白い街灯に照らされ、空間を支配し、幻想的な風景を俺の目に見せていた。
先を行く練の背中を追い、俺はその後を歩く。
スマートなあいつの後ろざまは、まるでどこぞのモデルのように見える。冷たい外気にさらされているからか、練の両手はジャケットのポケットの中だ。
眺めていたら、こっちの手もかじかんできたようで、スラックスのポケットに手を突っこむ。しかし、あまり温かくはなかった。
「待てよ、練」
別段呼び止める理由があるわけではないが、先を歩く練の歩調が早い。少しずつ距離が開く気がして、俺は声を出した。
しかし、練は振り向きもしない。
無視しやがって、と若干の文句が内心には沸いたものの、大したことではないだろう。なんたって、いつも俺たちはこんな調子だ。
ただ、流れる空気は前方からこちらへ向かい、遠く練の鼻歌が伝わった。
パティ・スミスの『Because the night』。
俺は、あの日を思い出す。タクシーの中、涙を流した練の横顔が、街の明かりに照らされていたあの夜のことを。
胸に広がる切なさに似た感覚が、じくりと痛み始めたようだ。

風が吹く。
花びらが舞う。
俺と練を分かつように、吹きゆく桜の断片が互いの間を埋めていく。
目の前に散る花びらに邪魔をされて、練の背中が消えそうだ。
上を見上げれば、満開の桜の奥に、深い闇がある。天は花と黒に覆われて、星のひとつだって見えやしなかった。
果てない闇を前に、不安に駆られた俺は歩幅を広げる。
あの暗闇の中にいるのは、韮崎なのか。
あの男が再び練を掠っていくというのか。
早く練を捕まえなくてはと、頭の中には警鐘音が鳴り響いていた。

大量の花びらの向こう側、少しだけ背を丸めた練の後ろ姿は、恐ろしいほどに闇と溶け合い、目に映る光景は壮絶に美しいものだ。それは、劇画のワンシーンを切り取ったかのように綺麗で悲しい。
「練」
歩みを止めないから、俺は再び声を出す。
それでもあいつの脚は、声などまるで届いていないように動き続け、追いかける俺の前から去ろうとするのだ。
――待て。
俺は駆け出す。
黒い夜の中に、韮崎の影が見える気がした。視界を遮る桜の花が邪魔だ。
花びらの段幕を無理に掻き分け、その奥に在る練に手を伸ばした。
「練……っ」
腕を掴む。
そのまま背後から、練の身体を抱きしめた。
体温と心音を感じ、俺はほっと息を吐き出す。抱く力を強くして、練がこの腕から逃げられないように、がっしりと手を回した。
白檀の香り濃い耳の後ろに鼻を押し当て、その存在を確かめる。よかった、ちゃんとここにいるじゃないか、そう言い聞かせ、なおも不安を払拭できない頭を振り払う。
せめて声が聴きたかった。
なぜ、練は一言も話さないのだろう?

そういえば、世界には色がなかった。桜は白く、抱きしめる練も白く、空はどこまでも黒い。
背後から、練の口が動いたのが分かった。しかし、何を言っているのか、全く耳には入らない。
匂いと、感触だけはこんなにもリアルなのに、練の声も、表情も分からないことがあまりに奇妙なのだ。

ああ、これは夢なんだと、ぼんやりと開けた意識の中で俺は思う。
目を開けば、相変わらず世界は暗かったけれど、見慣れた部屋の天井があった。
ここに練はいない。当たり前である。



カーテンを開ければ、公園の桜が見えた。
今朝からの強い風で、随分花びらは散っているみたいだ。地面には花弁が降り積もっている。明日にはそれが一面に広がっているのだろうか。
感傷に浸っている場合ではない。それは分かっている。しかし、今夜は感情が高ぶっているようだ。
脱ぎ散らかしたスーツのジャケットに、もう封筒の存在はない。
儚い桜が見せる幻影か、瞼の下にいまだ残る練の姿が、窓ガラスに映っているかのようだった。



  ***

  甘い話を書いたあとには、苦い話が書きたくなります。
  これも、砂糖を吐くほど甘くなった話を書いたあとに、衝動に駆られて書き上げました(笑) 
  2008.7